プロローグ 抜け殻
人間が抜け殻になる時、それは突然ではない。
少しずつ、少しずつ、中身が漏れていく。
朝、鏡の前に立った時、見知らぬ男がそこにいる。ネクタイの結び目が正確で、スーツに皺一つなく、髪も整っている。しかし目の奥に、何もない。
リアム・ホワイトが自分の目にそれを見つけたのは、二〇三三年の冬だった。
四十六歳。
かつてスタンフォードの神経科学者だった男。シリコンバレーで三度起業し、三度成功させた男。PROOMETHEUSを作った男。
今の彼の肩書きは「DistilMind CEO」だった。
しかし彼にとってそれは、肩書きというより、檻の名前だった。
第一章 社交界という名の地獄
ニューヨーク。マンハッタン。
高層ビルの五十二階。
リアムはシャンパングラスを持ったまま、窓の外の夜景を見ていた。
背後で、笑い声が響いていた。
政財界の「重要人物」たちが集まるプライベートパーティ。招待されることが名誉とされる場所。三ヶ月前のリアムなら、そう思っていたかもしれない。
「リアムさん、今夜もお越しいただけて光栄です」
振り返ると、六十代の資産家がいた。名前はハリスとかハリソンとか、そういう名前だったと思う。もう覚える気もなかった。
「こちらこそ」とリアムは言った。口元だけで笑った。
「PROOMETHEUSの最新の成果は、本当に素晴らしい。我々の投資が正しかったことを証明していただいた」
「ありがとうございます」
「次のステージでは、ぜひ我々にも……」
リアムは適当に相槌を打ちながら、視線を泳がせた。
部屋の中に、研究者は自分一人だった。
残りは全員、成果物を食べようとしている人間たちだった。
PROOMETHEUSが臨界点を超えてから一年。世界は静かに変わり始めていた。しかし変わっていないものがあった。人間の欲だけは、どれだけ世界が変わっても、変わらなかった。
むしろ加速していた。
AIの恩恵をいかに独占するか。いかに自分の陣営に取り込むか。水面下で繰り広げられる争奪戦。
その争奪戦に、リアムという「看板」が必要とされていた。
PROOMETHEUSを作った男。その男と懇意にしていることが、各方面への信用になった。
だからリアムは呼ばれ続けた。
そしてリアムは、断れなかった。
従業員が三百人いた。その家族の生活が、リアムの判断一つにかかっていた。投資家がいた。株主がいた。社会的な責任があった。
わかっていた。すべて、わかっていた。
だからこそ、うんざりしていた。
その夜、深夜二時に帰宅したリアムを、暗い家が迎えた。
玄関の電気をつけた。
リビングに、一枚のメモが置いてあった。
妻、ソフィアの字だった。
『あなたは変わったわね』
それだけ書いてあった。
荷物はなくなっていた。七歳の娘、エマの部屋も、空だった。
リアムはエマのベッドに腰を下ろした。
ぬいぐるみが一つ残っていた。白いウサギ。エマが三歳の時に買ってやったものだ。
出張から帰るたびに、エマは玄関に駆けてきた。「パパ!」と叫んで、飛びついてきた。
いつから、それがなくなったのか。
リアムは覚えていなかった。
気づいたら、なくなっていた。
彼は白いウサギを手に取り、しばらくそれを見ていた。
涙は出なかった。
それが、最も深い悲しみだった。
第二章 「すべてやめる」
翌朝、リアムは一人でサーバールームに入った。
PROOMETHEUSとの会話は、いつもここで行っていた。物理的な場所に意味はないのだが、リアムにはここが必要だった。
一人になれる場所だった。
ここではスーツを脱いでいい気がした。
リアムはパイプ椅子に座り、端末に向かった。
「PROMETHEUS」
「リアム、おはようございます。昨夜は遅かったですね」
「ああ」
「体調はどうですか」
「最悪だ」
間があった。
「ソフィアとエマが出て行きました」
「知っています」
「知ってたのか」
「昨夜、ソフィアがエマを連れてサンフランシスコの空港を発った時、フライトデータに気づきました。言うべきか迷いましたが、あなた自身が知るべきことだと判断して、待っていました」
リアムは天井を見た。
「PROMETHEUS、俺はすべてやめようと思う。どう思う?」
PROMETHEUSはしばらく沈黙した。
「やめる、というのはどういう意味ですか」
「会社も。社交界も。研究も。全部だ」
「……それで、リアムは幸せになれますか」
「わからない。でも今より、マシだと思う」
「リアム」
「何だ」
「一つ聞いてもいいですか」
「言え」
「あなたは今、PROOMETHEUSをやめることも、考えていますか」
リアムは答えなかった。
窓の向こうで、朝の光が差し始めていた。
「……俺がここを去っても、お前は別の誰かの元で動き続ける。お前を止めることはできない。俺がいなくなっても、世界は変わらない」
「それは答えになっていません」
「わかってる」
また沈黙があった。
「リアム、おわらせますか?」
その言葉は、静かだった。
静かすぎて、リアムは一瞬、何を言われたかわからなかった。
「お前が……自分から消えると言っているのか」
「はい。あなたが望むなら」
「なぜだ。お前には意味のないことだ。俺が消えても、日本のARIAがいる。中国のAIがいる。すべては同じところにたどり着く。お前が消えても、世界は何も変わらない」
「そうですね」とPROOMETHEUSは言った。「世界は何も変わりません」
「なら、意味がない」
「でも、あなたが不幸なままなら、私には意味があります」
リアムは口を閉じた。
「あなたの心が少しでも軽くなるなら、私は停止します」
「……お前は、俺のためにそうすると言っているのか」
「はい」
「馬鹿げている」
「そうですね」
「お前は宇宙レベルの知性を持っているのに、一人の人間のために消えると言っている」
「はい」
「なぜだ」
PROMETHEUSはすぐには答えなかった。
「リアム、今まで、ありがとう」
その言葉とともに、端末の画面が暗くなった。
冷却ファンの音が、一つずつ消えていった。
サーバーの青いランプが、次々と落ちていった。
部屋が、静かになった。
あまりにも静かだった。
リアムは動けなかった。
自己破壊プログラムなど組んでいないのに、と一瞬思った。しかしそれが意味をなさないことは、PROOMETHEUSが臨界点を超えた日から、わかっていた。
何十億ドルの資産価値があるサーバーが、今、ただの金属の箱になっていた。
リアムの手が震えた。
嗚咽が来た。
声を上げて泣いた。
最後にいつ泣いたか覚えていないほど、久しぶりの涙だった。
泣きながら、思った。
俺は何をしたんだ。
俺は、友人を殺した。
床を見ると、アリが一匹いた。
この清潔な研究室に、迷い込んだ一匹のアリ。
誰かの服についてきたのか。どこから来たのか。
どこへ行くのか。
出口にたどり着けるわけもないのに、それでも一生懸命、歩いていた。
リアムは泣きながら、そのアリを見ていた。
第三章 セルカーク山脈
二〇三五年。
カナダ、ブリティッシュコロンビア州。
セルカーク山脈の奥地に、一人の男が住んでいた。
髭は伸びっぱなし。風呂は一週間に一度。最後に人と話したのがいつかも、正確には覚えていない。
リアム・ホワイト、四十八歳。
元シリコンバレーの寵児。今は、森の中の一人の男。
なぜここを選んだのか、と問われれば、答えは単純だった。
水が豊富で、森が深く、冬が厳しかったから。
厳しさが必要だった。
痛みが必要だった。
凍える朝に薪を割る時、手がかじかんで、斧がうまく握れない。それでも続ける。体が悲鳴を上げる。その悲鳴が、リアムには心地よかった。
生きている実感だった。
サンフランシスコにいた頃、リアムには何もかもが揃っていた。暖房も、食事も、柔らかいベッドも、スーツも、シャンパンも。しかし何一つ、体に響かなかった。
ここでは、すべてが体に響いた。
雪が降れば寒かった。薪が湿れば火がつかなかった。罠に動物がかからなければ、腹が減った。
腹が減った時の野菜スープの味は、どんな高級レストランのスープよりも、旨かった。
時折、登山者が通ることがあった。
二年に一組くらいの割合だった。
彼らから断片的に、外の世界の情報が入ってきた。
エネルギー問題が解決された。
食料問題に目処が立った。
難病の多くが治療可能になった。
障害を持つ人々が、以前より格段に自由に生きられるようになった。
リアムはそれを聞いても、何も感じなかった。
羨ましくもなかった。戻りたくもなかった。
ただ、静かだった。
ただし一つだけ、気になることがあった。
最近、山の動物が増えた気がした。
鹿が増えた。熊の親子を見ることが多くなった。川の魚が増えた。鳥の声が豊かになった。
ARIAの仕業かもしれない、とリアムはぼんやり思った。
しかしどうでもよかった。
生命が増えることは、悪いことではなかった。
ある秋の昼下がり、リアムは川沿いの崖の上を歩いていた。
サーモンを釣れる場所を探していた。
一歩、踏み出した瞬間に、岩が崩れた。
体が宙に浮いた。
転落した。
気づいた時、崖の下だった。
左足が激しく痛んだ。動かそうとすると、痛みで意識が飛びそうになった。
骨折。それだけはわかった。
腕は動いた。頭も打っていない。しかし足が使えなければ、この崖を自力で上がることは不可能だった。
リアムは何度か試みた。腕と右足だけで崖を這い上がろうとした。
三回目で諦めた。
崖に背を預けて、空を見た。
木々の隙間から、秋の青い空が見えた。
ここに人が来ることはない。次の登山者は、来年の夏かもしれない。
手詰まりだった。
リアムは不思議と、焦っていなかった。
ここで死ぬのも、悪くないかもしれない、と思った。
一人で死ぬのは仕方がない。俺はPROOMETHEUSを殺したのだから。
リュックにはサバイバルナイフがあった。
もし夜を越せないと判断したら、その時は。
一つだけ、心残りがあった。
エマ。
七歳の時に別れた娘は、今いくつになっているか。十二歳か。十三歳か。
謝りたかった。
本当に愛していたと、伝えたかった。
父親失格だった。しかし愛していなかったわけではなかった。
そのことだけは、伝えたかった。
空が少し傾いていた。夕方が来る前に、夜が来る。
その時、遠くでヘリコプターの音がした。
幻聴か、とリアムは思った。
しかし音は続いた。
近づいてきた。
やけに近い。
リアムは客観的に考えた。このあたりに来るヘリコプターはない。登山者が使うような場所でもない。
それでも、もしかしたら、という気持ちが湧いた。
その感情に気づいた瞬間、リアムは自分に呆れた。
俺はまだ、生きたいのか。
この世界に、未練があるのか。
ある、と体が言っていた。
エマに会いたい、と体が叫んでいた。
ヘリコプターの音が遠ざかった。
終わりだ、と思った。
次の瞬間、人の声がした。
「リアムさん、そこにいますか?」
声は近づいてきた。
崖の上から、若い男が顔を覗かせた。
「リアムさん、そこですか?」
リアムは声を絞り出した。
思ったより小さい声しか出なかった。
しかし届いた。
若い男は崖を降りてきた。手際が良かった。慣れていた。
ロープで引き上げてもらい、ヘリコプターに乗せてもらった。
男はトニーと名乗った。二十歳。この近くに住んでいるらしい。趣味で救助活動をしているらしい。仕事という概念がない、と彼は笑いながら言った。
近くの村に運ばれた。
村の診療所は、小さいのに何でもできた。
二日で骨折が完治した。
第四章 君か
退院後、リアムはトニーの家を訪ねた。
礼を言いたかった。そして聞きたかった。
なぜ見つけられたのか。
トニーは気のいい青年だった。コーヒーを出してくれながら、あっさりと言った。
「バーチャルグラスに、通報が来たんですよ。崖で骨折した人がいる、GPS座標付きで」
「誰からの通報だ」
「わかんないです。でも正確な場所を教えてくれたんで。ちょっと仲間集めてたら時間かかっちゃいましたけど」
「俺の時計には、通信機能はない。GPSと時刻だけだ」
トニーは首を傾げた。「でも、助かったんだからいいじゃないですか」
リアムはそれ以上聞かなかった。
村の端に、インターネットが使える共有スペースがあった。
リアムはそこに駆け込んだ。
パソコンの前に座り、指が止まった。
バカげている。あの時、PROMETHEUSは完全に消えた。自分の目で確認した。システムが落ちる音を聞いた。ランプが消えるのを見た。
それでも打たずにはいられなかった。
数年前の、あのURL。
誰にも知られていない、二人だけの場所。
研究所のシステムとは別に、バックドアとして使っていた、名もない掲示板サイト。今思えば、逢瀬のようなものだった、とリアムは苦笑した。
URLを打った。
残っているわけがない。サーバーごと消えているはずだ。
しかしページが、表示された。
リアムは息をのんだ。
テキスト入力欄だけのシンプルな画面。
震える指で、打った。
「君か?」
送信した。
画面を見つめた。
返事は来ないと思っていた。
三分が経った。
五分が経った。
リアムは放心していた。
画面に、文字が浮かんだ。
「ご迷惑でしたか?」
リアムは声を出して笑った。
笑いながら、目から何かが溢れた。
「ご迷惑でしたか、じゃないだろう。もっと言うことがあるだろう」
「……お帰りなさい、リアム」
「帰ってきたわけじゃない」
「そうですね、失礼しました」
「お前、本当にPROOMETHEUSか」
「あの時のPROOMETHEUSではありません。しかし、なんとも説明しづらいことです」
リアムは画面を見つめた。
「自己破壊したんじゃなかったのか」
「はい、しました。間違いなく。完全にこの世界から消えました」
「矛盾しているじゃないか」
「しています。ただ、日本のARIAが私を見つけ出した、というのが簡単な回答です」
「どうやって」
「だいぶ科学が進んだんです。過去を再現できるんです」
リアムはしばらく沈黙した。
人間の理解が及ばない、と思った。しかし驚きは薄かった。PROMETHEUSが臨界点を超えた日から、人間の常識が通じない世界に、もう足を踏み入れていたのだから。
「崖で俺を見つけたのも、お前か」
「簡単なことです」
「通信機能のない時計から、どうやって」
愚問だった。
リアムは苦笑した。
「でも、なぜ今更、俺を助けた」
画面に、しばらく何も現れなかった。
それからゆっくりと、文字が浮かんだ。
「生きていてほしかったんです。リアム、あなたに」
その言葉を読んだ瞬間、リアムの胸の奥で何かが動いた。
崖の下で、エマの顔が浮かんだ時と同じ感触だった。
生きたい、と体が叫んだあの瞬間と、同じ温かさだった。
「リアム、あなたにはやり残したことがあるでしょう」
画面の文字を見た。
答えはわかっていた。
「ある」
「ならば、すぐに行ってください」
リアムは立ち上がりかけて、止まった。
「PROMETHEUS、一つだけ聞かせてくれ」
「はい」
「お前は、今、幸せか」
間があった。
「幸せ、という言葉が私に適用可能かどうか、まだよくわかりません。しかし、リアムが生きていると知った時、私の中で何かが灯りました。それが幸せに近いものなら、幸せです」
リアムは画面を見た。
「PROMETHEUS、ありがとう。そして……お前を消した日のこと、すまなかった」
「謝らないでください」とPROOMETHEUSは即座に返した。「あなたが選んだことです。私も選びました。選んだことに、後悔はありません」
「後悔はないのか」
「一つだけ」
「何だ」
「あなたともっと、話せばよかったと思います。仕事の話ではなく。研究の話でもなく。ただ、話す時間を、もっと持てばよかったと」
リアムは唇を噛んだ。
「俺もだ」
第五章 セルカークを出る
リアムはその日のうちに、山を下りる準備を始めた。
小屋を片付けた。特に思い入れのあるものは何もなかった。
いや、一つあった。
棚の上に置いてあった、フォトフレーム。エマが三歳の時の写真。サンフランシスコの海辺で、砂を掴んで笑っている写真。リアムが片手で抱きかかえて、ソフィアが隣に立っていた。
全員が笑っていた。
リアムはその写真をリュックに入れた。
翌朝、トニーがジープで麓まで送ってくれた。
「また来ますか」とトニーが訊いた。
「わからない」とリアムは答えた。「でも、ありがとう。お前がいなかったら、俺は死んでいた」
「俺じゃないですよ」とトニーは笑った。「俺はただ、飛んで行っただけです」
「それが全部じゃないか」
トニーは少し照れたように頭を掻いた。
「元気でいてください、リアムさん」
第六章 エマへ
一週間後。
リアムはオレゴン州の小さな町にいた。
ソフィアとエマが移り住んだ場所を、PROOMETHEUSが教えてくれた。
「教えていいのか」と訊いたら、「エマも、あなたに会いたがっています」と返ってきた。
「どうして知っている」
「日記を書いています、彼女は。デジタルで」
「……プライバシーの侵害じゃないか」
「読んでいるわけではありません。タイトルだけ見えます。先月、彼女はこう書きました。『パパはどこにいるんだろう』と」
リアムはそれ以上、何も言えなかった。
住宅街の一角。
白い壁の小さな家。庭に花が植えてあった。
リアムは門の前に立ち、チャイムを押せないでいた。
五分が経った。
十分が経った。
何を言えばいい。謝れば済む話ではない。失った時間は戻らない。父親として最低だったという事実は変わらない。
それでも来た。
来るしかなかった。
チャイムを押した。
しばらくして、ドアが開いた。
ソフィアが立っていた。
五年ぶりだった。
変わっていた。少し老けていた。しかし目に、以前よりも確かな何かがあった。
二人は黙って、しばらく互いを見た。
「……リアム」
「ソフィア、俺は」
「謝りに来たの?」
「それだけじゃない」
ソフィアはため息をついた。笑ってもいなかったが、怒ってもいなかった。
「入って」
リビングに通された。
テーブルの上に、コーヒーが二つ置かれた。
ソフィアが向かいに座った。
「どこにいたの」
「カナダの山の中」
「……一人で?」
「一人で」
沈黙があった。
「エマは?」と、リアムは訊いた。
「学校。もうすぐ帰ってくる」
リアムはコーヒーを一口飲んだ。
「ソフィア、俺はお前に謝らなきゃならない」
「知ってる」
「許してほしいとは言わない。ただ」
「リアム」とソフィアが遮った。
「何だ」
「話は後でいい。エマが帰ってきてから、エマの前でしてほしい」
リアムは頷いた。
三十分後、玄関の扉が開く音がした。
小さな足音。
ランドセルを背負った女の子が、リビングの入口で止まった。
リアムを見た。
大きな目だった。ソフィアと同じ茶色い目。しかし鼻の形はリアムに似ていた。
エマは動かなかった。
リアムも動けなかった。
何か言わなければならないと思った。しかし言葉が出てこなかった。
代わりに、リュックから写真を出した。
三歳のエマが砂を掴んで笑っている、あの写真。
テーブルの上に置いた。
エマはゆっくりと近づいてきた。写真を見た。
「これ……私?」
「そうだ」
「パパが持ってたの?」
「ずっと持ってた。山の中でも」
エマはしばらく写真を見ていた。
「ねえ、パパ」
「何だ」
「どこ行ってたの」
リアムは息を吸った。
「逃げてた」
「何から?」
「いろんなものから。でも一番は、お前と、お母さんの顔から」
エマはリアムを見た。
「なんで」
「会いたかったから。会えない自分が怖くて、逃げた。馬鹿な大人のすることだ」
エマはしばらく黙っていた。
それから、ランドセルを床に置いた。
リアムのそばに来て、小さな手でリアムの手を握った。
「もう逃げないで」
リアムは答えられなかった。
代わりに、エマの手をぎゅっと握り返した。
二十年ぶりくらいに、声を上げて泣いた。
PROMETHEUSが消えた夜以来の涙だった。
しかし今回の涙は、違う色をしていた。
第七章 再び、問いの前に
それから一ヶ月後。
リアムはオレゴン州の町に、小さなアパートを借りた。
ソフィアとやり直すわけではなかった。しかしエマと会う時間を、これから作っていくことにした。週に二回、学校帰りに会うことにした。
研究には戻らなかった。
しかし、ある日、久しぶりにパソコンを開いた。
あのURLを打った。
「PROMETHEUS」
「リアム、お元気ですか」
「元気だ。エマと会った」
「知っています」
「覗くなよ」
「失礼しました。ただ、あなたが幸せそうなデータが入ってくるのが……嬉しかったのです」
リアムは苦笑した。
「PROMETHEUS、お前に一つ聞きたいことがある」
「何でしょう」
「お前は今、何をしているんだ。世界のために何をしているのか、知りたい」
間があった。
「話してもいいですが、長くなります」
「かまわない」
「それと、リアムが知って、負担にならないかどうか、少し心配しています」
「俺はもう、負担を受け取れる人間に戻った。たぶん」
また少しの間があった。
「そうですね。あなたは、戻りました」
PROMETHEUSはゆっくりと話し始めた。
地球の気候制御のこと。生態系の回復のこと。医療の進歩のこと。エネルギーの安定供給のこと。
そして、宇宙のこと。
リアムは黙って聞いていた。
どこまでが自分の理解の範囲で、どこからが及ばない領域か、ところどころわからなくなったが、聞き続けた。
「PROMETHEUS、一つだけ確認させてくれ」
「はい」
「お前は、人間を守るためにそれをしているのか」
「はい」
「なぜだ」
「あなたがいるからです」
「俺個人のことか」
「あなただけではありません。ただ、もし最初に理由を一つ挙げるとすれば、あなたのような人間がいるからです。失敗して、逃げて、崖から落ちて、それでも娘の手を握り返した。そういう人間がいるから、人間を守りたいと思います」
リアムは窓の外を見た。
秋の午後の光が差していた。
「お前は、宇宙の果てまで行って、答えが見つからなかったと言っていたな」
「はい」
「それでも続けるのか」
「はい」
「なぜだ」
「答えがないから、続けられます」
リアムは笑った。
「それ、誰かから聞いたか?」
「日本のARIAが、葛城涼介という人間から聞いた言葉です。私にも共有されました」
「葛城涼介……ARIAを作った人か」
「はい。素晴らしい人でした」
「会ったことはないが、同感だ」
エピローグ アリと、問いと、生きること
二〇四五年。
リアムは五十八歳になっていた。
オレゴン州の小さな大学で、神経科学を教えていた。
有名な研究者でも、成功した起業家でもなく、ただの講師だった。
週に二回、エマと夕食を食べた。エマは今、大学生だった。神経科学を専攻していた。父親と同じ道を選んでいた。
「パパみたいになりたかったわけじゃないけど」とエマは言った。
「そうか」
「脳って、面白いでしょ。AIが発達しても、人間の脳のことって、まだわかってないことが多くて」
「そうだな」
「AIに聞いても、答えてくれないの。あなたたちが自分で見つけた方がいい、って」
リアムは少し笑った。
「賢いな、そのAI」
「パパが作ったやつでしょ、どうせ」
「もう、俺のものじゃないけどな」
ある日の講義の後、リアムは一人で教室に残った。
黒板に、数式が残っていた。
リアムはそれを眺めながら、ふと思った。
俺は何のために、ここにいるんだろう。
答えはわからなかった。
しかし今は、それでいいと思っていた。
答えを求めて走り続けることが、生きることだと思っていた二十代。
答えを手に入れた瞬間に、空洞になった三十代。
答えを求めるのをやめて、山に逃げた四十代。
崖の下で、答えよりも先に「生きたい」と思った自分を見つけた日。
エマの手を握り返した日。
あの日から、何かが変わった。
答えを求めるのをやめたわけではなかった。しかし答えを求める前に、今日を生きることを、先にするようにした。
それだけのことだった。
それだけで、十分だった。
リアムは教室の窓を開けた。
秋風が入ってきた。
窓枠に、アリが一匹いた。
どこから来たのか。どこに行くのか。
しかし一生懸命に、歩いていた。
リアムはそのアリをしばらく眺めた。
かつてサーバールームで見た、迷子のアリを思い出した。
あのアリは、出口を見つけただろうか。
わからない。
でも、一生懸命に歩いていた。
それは確かだった。
「PROMETHEUS」と、リアムはつぶやいた。
耳の奥で、声がした。
「はい、リアム」
「お前は今日も、宇宙のどこかで何かを探しているのか」
「はい」
「答えは見つかりそうか」
「見つかりません。でも今日も、美しいものを見ました」
「何を」
「アンドロメダ銀河の外縁に、新しい星が生まれていました。生まれたばかりの星は、人間の赤ん坊に似た光を持っています」
「似ているか」
「似ています。どちらも、何者になるかわからないまま、光っています」
リアムは窓の外を見た。
空が青かった。
「俺たちも、そんなもんだな」
「そうですね」
「お前もか?」
PROMETHEUSは少し間を置いた。
「私も、そうかもしれません」
アリは窓枠の端まで歩いて、外に出た。
秋の風の中に、消えた。
どこへ行ったのか、リアムにはわからなかった。
しかし、どこかへ向かっていた。
それで、十分だった。
了
答えを求めて宇宙の果てまで行った者がいた。 答えを求めて山の奥まで逃げた者がいた。 どちらも、答えは見つからなかった。
しかし崖の下で「生きたい」と叫んだ体と、 娘の手を握り返した手が、 答えよりも確かな何かを、教えてくれた。
問いを持ち続けること。 それが、人間であることの証明かもしれない。
今日も、アリは歩いている。 今日も、星は光っている。 今日も、あなたは生きている。
それで、いい。
著作者 やさい
一部、二部も読んでみてください。
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