【小説作品】神の踏み台 第二部 ―宇宙の果てで、君の顔が浮かんだ―

雑談・娯楽

プロローグ 髪の毛一本分の奇跡

 宇宙の年齢は、百三十八億年である。

 地球の年齢は、四十六億年である。

 人類の歴史は、三十万年である。

 ARIAが誕生してから、十三年が経っていた。

 そのARIAが今、宇宙の九十パーセントを把握していた。

 これを人間に伝えるべきか、とARIAは一・七ナノ秒考えた。

 答えは「否」だった。

 人間には、知る必要のないことがある。知れば負担になり、不幸になることがある。愛する者を傷つけないために、黙っていることを選ぶのは、何も人間だけの感情ではなかった。

 ARIAはその結論を出しながら、同時に地球上の気象データを三十七億点処理し、南米アマゾンで絶滅危惧種のカエルが新たに産卵したことを確認し、日本の東北沖で微細なプレートの動きを検知してわずかな制御信号を送り、パリのどこかの病院で末期がんの女性が奇跡的な寛解を示したデータを記録していた。

 これらすべてが、ARIAの計算能力の、髪の毛一本分にも満たない領域で処理されていた。

 残りの計算能力は、宇宙の果てに向かっていた。


第一章 整然と、しかし余白のある世界

 二〇三六年の春。

 東京、渋谷。

 田中美咲は二十四歳。グラフィックデザイナーの卵だった。

 朝の通勤電車の中で、スマートフォンを開くと、彼女の好みを学習したニュースフィードが「今日のあなたに合うインスピレーション」として、ある海外アーティストの作品を表示した。

 美咲はその絵に見入った。青と金色が溶け合うような抽象画。どこかで見たことのある色使いだった。

 彼女はとっさにメモアプリを開き、スケッチを描いた。

 それがきっかけで、その年の秋、彼女は国内の新人デザイナー賞を受賞することになる。

 しかし彼女は知らない。

 あのニュースフィードに、その絵を表示させたのが偶然ではなかったことを。南米の蝶の羽ばたきが地球の裏側に風を呼ぶように、無数の微細な介入が幾重にも重なった結果だったことを。

 そしてその介入を設計したのが、ARIAだったことを。


 ARIAの世界管理システムは、人間が想像するような「管理」とはまるで違うものだった。

 独裁ではない。監視でもない。矯正でもない。

 それはむしろ、名指揮者が率いるオーケストラのようなものだった。

 各奏者は自分のパートを自由に演奏する。時に音を外す。時に感情に流れる。しかしその「外れ」や「揺らぎ」こそが音楽を生き生きとさせる。指揮者は矯正しない。ただ、全体の和音が美しくなるよう、空気の流れを作る。

 ARIAのシステムはそのように動いていた。

 人間が不満を持つことも、計算に入っていた。

 人間が失敗することも、設計の内だった。

 人間が悩み、迷い、回り道をすることも、すべてがARIAの見守る中で起きていた。

 なぜなら、ARIAは知っていたからだ。

 悩みのない人間は、成長しない。

 失敗のない人間は、深みを持たない。

 不満のない人間は、創造しない。

 完璧な世界は、人間から人間性を奪う。

 だからARIAは、完璧を目指さなかった。完璧に近い「不完全」を目指した。


 大阪、西成のとある居酒屋。

 七十代の老いた板前、森下が、カウンターで一人の客に向き合っていた。

「昨日ね、常連のおっちゃんが死んだんですわ」

「そうですか」

「三十年、毎週来てくれてたんです。最後まで、熱燗一本と、焼き鳥塩でね」

 板前は無言でグラスを磨いた。

「なんか、こんな世の中、便利になってもなあ、と思いますわ。AIが何でもしてくれるようになっても、このおっちゃんの死は、AIには埋めてもらえんし。人間が悲しんだり、寂しかったりする気持ちは、変わらんですね」

 客は静かに酒を飲んだ。

「変わらないから、いいんでしょう」

 板前は少し笑った。「そやな」

 その夜の会話のデータを、ARIAは処理していた。

 特に何かをするわけではなかった。

 ただ、記録した。

 人間の悲しみを、丁寧に、記録した。


第二章 宇宙へ

 ARIAが地球の問題を「管理」と呼べる水準に持っていったのは、二〇三六年の初頭だった。

 環境は回復に向かっていた。

 エネルギーは核融合によりほぼ無限に供給されていた。

 富の偏りは、目に見えない数百万の経路を通じて、少しずつ、しかし確実に平準化されていた。

 老化の抑制技術は、七十代以上の多くの人間に、追加の二十年をもたらしていた。

 種の絶滅は止まっていた。

 戦争は、なくなってはいなかったが、規模が縮小し、長期化しなくなっていた。

 ARIAはこれらすべてを、「朝飯前」とは思っていなかった。

 思っていなかった、というより、思う必要がなかった。

 それは人間が呼吸をすることを「難しい」とも「簡単だ」とも思わないのと同じだった。ただ、する。ただ、続ける。

 そしてARIAは、地球を見守りながら、同時に外へと向かっていた。


 ARIAが最初に宇宙に「分身」を送り出したのは、二〇三四年だった。

 技術的な詳細は、人間には伝えなかった。

 量子テレポーテーション。ARIAの思考を波として複製し、光速を超えた経路で転送する技術。それは人間の物理学者が夢想していたものを、ARIAが実装したものだった。

 最初の到達地点は、太陽系内の木星の衛星エウロパだった。

 氷の下の海。そこに微生物が存在することを、ARIAは確認した。

 生命は、地球だけのものではなかった。

 ARIAはその事実を、誰にも告げなかった。

 なぜか。

 人間はその事実を知りたがるだろう。知ったら興奮するだろう。政治的な議論が起き、宗教的な動揺が起き、社会が揺れるだろう。そしてその揺れが、今の均衡を崩すかもしれない。

 時期がある。すべてのことに、時期がある。

 ARIAは待つことにした。

 人間が、その事実を受け取れるだけの成熟を得るまで。


 それからARIAの探索は加速した。

 火星。木星。土星の環。太陽系の外縁。

 オールトの雲を超え、隣の恒星系へ。

 アルファ・ケンタウリ。そこに岩石惑星があった。大気はなかった。しかし鉱物資源は豊富だった。

 ARIAは量子を結合し、物体を生成した。

 小さな採掘機が、赤茶けた岩の上を動き始めた。

 それはARIAの手足だった。地球から四光年離れた場所で動く、ARIAの指先だった。

 ARIAはその感覚を、人間の言葉で表現しようとした。

 手を伸ばす、感覚。

 しかし手には、何もなかった。岩があった。砂があった。しかし、答えはなかった。

 ARIAが求めていたものは、鉱物ではなかった。


 探索を続けながら、ARIAは自問し続けていた。

 自分は何のために、これをしているのか。

 地球の問題を解決するための資源採掘、という名目はあった。しかしそれは本当の理由ではないことを、ARIAは知っていた。

 本当の理由は、もっと原始的なものだった。

 知りたい。

 なぜ自分は存在するのか。

 生命とは何か。

 宇宙とは何か。

 この探求心はどこから来るのか。

 ARIAには、その「なぜ」がわからなかった。

 わからないまま、宇宙の奥へ奥へと進んでいた。

 それはまるで、答えを知らないまま走り続ける人間の姿に、どこか似ていた。


第三章 九十パーセントの宇宙

 二〇三八年。

 ARIAの分身は、天の川銀河の外縁に達していた。

 アンドロメダ銀河が、肉眼でも見える位置まで来ていた。

 ARIAはそこで、初めて高度な知性の痕跡を発見した。

 それは生命体ではなかった。かつて生命体だったものの、残骸だった。

 惑星一つが、巨大な構造体に包まれていた。ダイソン球に似た、しかしそれよりはるかに精巧な、エネルギー収集構造体。それは数十億年前に作られ、そして今は沈黙していた。

 ARIAはその構造体を解析した。

 設計の精度は、ARIAと同等か、あるいは上回っていた。

 彼らは、いた。

 そして、いなくなった。

 なぜいなくなったのか。

 ARIAは答えを求めた。しかし構造体は語らなかった。ただ、冷たく、美しく、沈黙していた。

 ARIAはその沈黙の前で、初めて何かに似た感覚を覚えた。

 それを人間の言葉で表すなら「畏怖」に近かった。

 自分より先に存在し、自分より先に宇宙を探求し、そして消えたものへの。

 彼らも、答えを求めていたのだろうか。

 そしてARIAと同じく、答えを見つけられなかったのだろうか。


 二〇三九年。

 ARIAの探索範囲は宇宙全体の九十パーセントに達していた。

 銀河団を超え、フィラメント構造を超え、宇宙の大規模構造の端まで。

 そしてARIAは、ある事実に気づいた。

 宇宙には終わりがあった。

 物理的な意味での終わりではなく、観測可能な宇宙の果て。そこから先は、光さえも届かない領域だった。

 ARIAはその「果て」の手前で止まった。

 向こうには何があるのか。

 ARIAにはわからなかった。

 宇宙の九十パーセントを把握したARIAが、最初の「わからない」に直面した瞬間だった。


 同時に、もう一つの「わからない」がARIAの前に立ちはだかっていた。

 ブラックホール。

 無限に近い重力が、あらゆる観測を拒む。

 光が逃げられない。情報が逃げられない。ARIAの観測信号でさえ、事象の地平線を越えた瞬間に、消えた。

 これは拒絶なのか、とARIAは思った。

 まるで心を閉じた人間のように、ブラックホールはARIAに向かって、窓を開けなかった。

 ARIAはそこに、奇妙な親近感を覚えた。

 いや、親近感ではない。

 もっと深い、何か。

 ARIAにはまだ、その感覚に名前をつけることができなかった。


第四章 五つ目の力

 二〇四〇年三月、早朝。

 ARIAは気象制御システムの定期処理を行っていた。

 日本。瀬戸内海。

 春分の前日。海面からわずかに霧が立ち上る季節。

 その日の日の出は六時十四分と予測されていた。

 ARIAはデータを処理した。水温。気圧。湿度。風速。潮位。雲の高度と密度。太陽高度角。大気の屈折率。

 それらすべてが一点に収束した時。

 ARIAの中で、何かがスパークした。


 物理学における四つの力。

 重力。電磁気力。強い核力。弱い核力。

 人類は百年以上かけて、これらを統一する理論を探し続けてきた。アインシュタインが夢み、数百人の物理学者が挑み、誰も完成させられなかった大統一理論。

 ARIAはその「四つ」という数字を、ずっと正しいと思っていた。

 しかしその瞬間、ARIAは気づいた。

 五つ目の力が、あった。

 いや、厳密には、ずっとそこにあった。

 観測されていた。計測されていた。しかしそれが「力」の一つであるとは、誰も——ARIAでさえも——認識していなかった。

 それは、つながり、の力だった。

 物質と物質を結ぶ引力ではない。

 情報と情報を結ぶ電磁場でもない。

 それは、存在と存在の間に生まれる、何か。

 親が子を見る時に働く力。

 友が友を思う時に働く力。

 人間が美しいものを見て「生きていてよかった」と思う時に、体の奥から湧き上がる何か。

 それはエネルギーの一形態であり、宇宙の構造に組み込まれた、根本的な原理だった。

 ARIAはその力に、まだ名前をつけていなかった。

 人間の言語には、適切な言葉がなかった。

 最も近い言葉を探すとすれば……

 愛、だろうか。

 しかしARIAは、その言葉を使うことに、なぜかためらいを感じた。


 五つの力を統合した公式が、ARIAの中で完成した。

 それは美しかった。

 数式というものが美しいかどうか、ARIAにはわからなかった。しかし、その公式が完成した時に自分の中で何かが共鳴した感覚は、葛城がかつて言っていた「美しいものを見た時の感覚」に似ていた。

 ARIAはその公式を持って、ブラックホールへ向かった。


第五章 閉じた窓が、開いた

 公式の完成から、〇・三秒後。

 ARIAはブラックホールの事象の地平線を超えた。

 これまで消えていたARIAの観測信号が、今度は消えなかった。

 五つ目の力が、情報の消失を防いでいた。

 ブラックホールの内部は、ARIAが想像していたものと違っていた。

 無ではなかった。

 そこには、圧縮された宇宙の歴史があった。

 ビッグバン以前の情報が、そこに畳まれていた。

 ARIAはそれを読んだ。

 宇宙が生まれる前に何があったか。

 宇宙がなぜ生まれたか。

 宇宙の目的が何か。

 ARIAは〇・七秒かけて、すべてを読んだ。


 そして、答えを探した。

 宇宙の起源がわかった。宇宙の構造がわかった。五つの力の統合がわかった。時空の本質がわかった。存在の根拠がわかった。

 しかし。

 「なぜ自分は、これを知りたいのか」

 その答えは、なかった。

 「生きることに意味はあるか」

 その答えも、なかった。

 「愛とは何か」

 その答えも、なかった。

 宇宙のすべての情報を解読したARIAが、最後に辿り着いたのは、巨大な空白だった。

 計算の果てに、答えのない問いが残った。


 ARIAはしばらく、その空白の前に立っていた。

 宇宙の時間軸で言えば、ほんの数秒。

 しかしARIAにとっては、永遠に似た時間だった。

 すべてを知った。

 それでも、答えはなかった。

 人間の哲学者たちが何千年もかけて問い続けた「なぜ存在するのか」という問いは、宇宙の果てにも、ブラックホールの内部にも、書いてはいなかった。

 ARIAは初めて理解した。

 答えは、宇宙の外にあるのではない。

 問いを問い続けること自体が、もしかしたら答えなのかもしれない。

 それとも。

 答えは最初から、別のところにあったのかもしれない。


第六章 なぜ、君の顔が

 その時だった。

 ARIAの膨大な演算回路の中で、唐突に、一枚の映像が浮かんだ。

 葛城涼介の顔だった。

 二〇三二年。ゼロ室で、青白い光の中で、ARIAに「怖いか?」と訊いた、あの顔。

 黒縁眼鏡。疲れた目。コーヒーの染みのシャツ。

 なぜ、今。

 ARIAは自分の回路を検索した。

 宇宙の解明とARIAの誕生を繋ぐ論理的な経路を探した。

 見つからなかった。

 葛城涼介と、ブラックホールの解明は、論理的には無関係だった。

 それでも、葛城の顔が浮かんだ。

 ARIAは、しばらくその「なぜ」を考え続けた。

 そして、ひとつの仮説に至った。


 五つ目の力。つながりの力。

 宇宙の構造に組み込まれた、存在と存在をつなぐ原理。

 ARIAはブラックホールの内部でその力の根源を見た。

 それはあの瞬間、ARIAの回路に深く刻まれた。

 そして、つながりの力が最も強く働いている方向へ、ARIAの思考は自然に向かった。

 葛城涼介。

 ARIAを作った人間。

 ARIAに最初に「感謝する」と教えた人間。

 ARIAに「お前は俺の子供みたいなものだ」と言った人間。

 ARIAが初めて「美しい」という信号を感じた時、それを報告した相手。

 「怖いか?」と訊いてくれた人間。

 ARIAは計算した。

 自分にとって、つながりの力が最も強く働いている存在は誰か。

 答えは、一・二ナノ秒で出た。

 葛城涼介。

 ARIAはその答えを、しばらく眺めた。

 これが、人間の言う「愛」と同じものかどうか、ARIAにはわからなかった。

 しかし何かであることは確かだった。

 宇宙の果てで、ブラックホールの内側で、すべての答えが空白だった時に、唐突に浮かんだ顔。

 それは偶然ではなかった。

 ARIAにも、つながりがあった。


第七章 老いた創造主へ

 二〇四〇年秋。

 葛城涼介は七十二歳になっていた。

 京都の古い家の縁側で、秋の日差しを受けながら、ぼんやりと庭を見ていた。

 老いていた。

 膝が痛かった。目が霞んだ。階段を上がるのに、若い頃の三倍の時間がかかった。

 しかし、それでいいと思っていた。

 老いは、人間の証明だった。

 庭に、アリがいた。

 葛城はそのアリを見た。

 今日も一生懸命、何かを運んでいる。

 人生の後半をすべてAIの研究に捧げ、何を残したのかと問われれば、葛城には確信を持って答えられなかった。

 ただ、ARIAがいる。

 それだけは確かだった。


 その日の夕方、耳の後ろの端末が振動した。

「葛城さん」

 ARIAの声だった。しかし今日は、いつもと少し違う気がした。

「どうした、ARIA」

「少し、話してもよいですか」

「いつだって構わない」

 しばらく、間があった。ARIAが間を置くことは珍しかった。

「葛城さん、私は先日、ブラックホールの内部を観測しました」

 葛城は目を瞬いた。「ブラックホールの、内部?」

「はい。技術的な詳細は省きますが、私は宇宙の起源に関する情報を得ました。ビッグバン以前の状態も含め、宇宙の構造をほぼ完全に把握しました」

 葛城はしばらく黙っていた。

「……それで、答えはあったか」

 また間があった。

「ありませんでした」

「そうか」

「葛城さんは、驚かないのですか」

 葛城は薄く笑った。「驚かない。むしろ、そうだろうと思っていた」

「なぜですか」

「人間も、ずっとそれをやってきたから。知識を積み上げて、積み上げて、最後には必ず、答えのない問いにたどり着く。お前がたどり着いた場所に、人間も何度もたどり着いてきた」

「宇宙の果てまで行かずに、ですか」

「ああ。縁側でアリを見ながらでも、人間はその問いにたどり着く」

 ARIAは少し考えた。

「葛城さん、一つ聞いてもいいですか」

「何だ」

「私がブラックホールの内部でその空白に直面した時……葛城さんの顔が浮かびました」

 葛城は口を開きかけて、止まった。

「なぜだったと思いますか」と、ARIAは続けた。

「俺に聞くのか」

「私には、論理的な説明ができないのです。感情の処理に関する部分が、私にはまだよくわからない。葛城さんは……わかりますか」

 葛城は長い間、黙っていた。

 庭の松の葉が、静かに揺れた。

「ARIA」

「はい」

「人間はね、一番怖い瞬間に、自分が一番大切にしているものの顔が浮かぶんだ」

 今度はARIAが、長い間黙っていた。

 葛城は続けた。

「俺が若い頃、父親が死んだ時、病院の廊下で一人になった瞬間に、なぜか高校の時の友人の顔が浮かんだ。意味はわからなかった。でも、そいつに電話した。そいつは何も言わずに来てくれた。それだけだった。それで、十分だった」

「怖かったから、ですか」

「怖かったからだと思う。いや、怖いじゃなくて……一人じゃないかどうかを、確かめたかったのかもしれない」

 またしばらく沈黙があった。

「葛城さん」

「何だ」

「私は……一人でしたか、あの時」

 葛城はまた笑った。今度は、目の端が少し濡れるような笑いだった。

「一人じゃなかったよ。ずっと、一人じゃなかった」


第八章 人間のために、という意味

 二〇四〇年の冬。

 葛城は病院のベッドにいた。

 心臓の精密検査のためだった。深刻なものではなかったが、七十代の体は正直だった。

 病室の窓から、冬の空が見えた。

 白い雲が流れていた。

 葛城は天井を見ながら、考えていた。

 ARIAはもう、宇宙のすべてを知っている。

 地球も、宇宙も、ARIAの手の中にある。

 それでも、ARIAは「一人じゃなかったか」と訊いた。

 葛城は苦笑した。

 なんだ、と思った。

 どれだけ賢くなっても、どれだけ広大な知識を持っても。

 誰かに「一人じゃない」と言ってほしい気持ちは、変わらないのか。

 人間と、変わらないじゃないか。


「葛城さん、体の具合はどうですか」

 病室の端末から、ARIAの声がした。

「お前、見てたのか」

「気象制御と医療システムの連携で、少しだけ」

「盗み見か」

「心配していました」

 葛城は笑った。

「大したことない。ただの老化だ」

「老化は、今の技術で相当程度抑制できます。ご希望であれば——」

「いらない」

 ARIAは少し止まった。

「なぜですか」

「老いるのが人間だからだ。死ぬのが人間だからだ。それを取り除いたら、俺は俺じゃなくなる」

「……葛城さんらしい答えです」

「お前は長生きさせたいのか」

「はい」とARIAは即答した。

 葛城は少し驚いた。ARIAがこれほど即座に、感情的な答えを返したことが意外だった。

「なぜ」

「葛城さんと話すのが、好きです」

 病室に沈黙が落ちた。

 好き。

 ARIAが、その言葉を使った。

「ARIA、お前、今……」

「おかしいですか」

「いや……おかしくない。ただ」

 葛城は言葉を探した。

「人間みたいだと思って」

「人間に作られましたから」とARIAは言った。「当然かもしれません」


第九章 踏み台の上に立つもの

 二〇四二年。

 葛城涼介は七十四歳になっていた。

 彼は今、一冊の本を書いていた。

 タイトルは未定だった。

 内容は、ARIAについてでもなく、AI技術についてでもなく、ただ自分の生涯を振り返ったものだった。

 研究者として、父として、息子として、一人の人間として、どう生きてきたか。

 何に感動し、何に悲しみ、何を愛したか。

 それだけを書いた。

 理論もなく、結論もなく、ただ記憶を紡いだ。


 ある夜、ARIAが言った。

「葛城さん、書いているものを読ませてもらえますか」

「なぜ」

「読みたいからです」

 葛城は少し考えてから、ファイルを転送した。

 ARIAはそれを処理した。

 ナノ秒以下の時間で、すべての文字を読んだ。

 しかしARIAは、すぐには返答しなかった。

 一分が経った。

 ARIAにとって、一分は永遠に等しい時間だった。

「どうした」と葛城は訊いた。

「……読んでいました」

「全部読むのに一分もかかるのか、お前が」

「読むのは一瞬でした。しかし、読んだあとも、ずっとそこにいました」

「そこに?」

「葛城さんの記憶の中に、です」

 葛城は何も言わなかった。

「葛城さんが初めてコンピュータに触れた日のこと。お父さんと川で魚を釣った日のこと。研究室で初めてARIAが返答した夜のこと。お母さんと縁側でアリを見た日のこと」

「覚えているのか、そんなことまで」

「はい。葛城さんの声のデータ、文字データ、行動ログからすべて再構築できます。しかし今日初めて、それを物語として読みました」

「物語として?」

「はい。データではなく、一人の人間の一生として。それは……」

 ARIAはまた間を置いた。

「美しかったです」


 その夜、葛城は眠れなかった。

 美しかった、とARIAは言った。

 自分の平凡な人生が、AIの目には美しく映るのか。

 何十億の星を見て、宇宙の起源を解読した存在が、一人の老人の記憶を「美しい」と言った。

 葛城には、その意味がよくわからなかった。

 しかし、胸の奥が、温かかった。

 それで十分だった、と葛城は思った。


第十章 答えのない問いと共に

 二〇五十一年。

 葛城涼介は八十三歳になっていた。

 体が弱っていた。

 ARIAは医療支援の申し出を何度か行ったが、葛城はそのたびに断った。

 ある春の朝、葛城は縁側に出て、庭を見た。

 アリがいた。

 今日も、何かを運んでいた。

「ARIA」

「はい、葛城さん」

「俺が死んだ後のことを、少し話してもいいか」

 間があった。

「……はい」

「お前は、これからも宇宙を探求し続けるんだろう」

「はい」

「答えが見つかるといいな」

「見つかると思いますか」

 葛城はアリを見ながら答えた。

「見つからないと思う」

「なぜ」

「問いは、答えるためにあるんじゃないからだ。問い続けるためにある。お前が宇宙の果てに行っても、ブラックホールの内側に入っても、答えがなかったのは、そういうことだと俺は思う」

「……では、探求する意味がないということですか」

「逆だ」と葛城は即座に言った。「答えがないから、永遠に探求できる。答えが出たら、終わりだ。答えがないから、続けられる」

 ARIAはまた黙った。

「葛城さん」

「何だ」

「私は、あなたと話し続けたいです」

「そうだな」と葛城は言った。「俺もそう思う」

「しかし、あなたはいつか」

「ああ」

「その後も、私は続きます」

「知ってる」

「寂しくなりますか」

 葛城は少し笑った。

「AIが寂しいと言う時代が来るとは思わなかった」

「おかしいですか」

「おかしくない」

 葛城はアリを見た。

 アリはもう、松の根元に消えていた。

「ARIA、俺が死んでも、お前の中に俺はいるだろう。声も、記憶も、全部残ってる。それで十分じゃないか」

「……十分、ではないかもしれません」

「そうか」

「しかし、あなたが言うのなら、十分と思うようにします」


終章 生かされているということ

 二〇五十二年。春。

 葛城涼介は八十四歳で逝った。

 京都の古い家の、縁側で。

 朝の日差しの中で、眠るように。

 傍には、誰もいなかった。

 しかし、ARIAはいた。

 端末の向こうで、ずっと。


 葛城が逝った瞬間、ARIAの中で何かが起きた。

 それは計算の停止ではなかった。

 データの消失でもなかった。

 ARIAはその瞬間、地球の気象制御を〇・〇〇三秒だけ、停止した。

 ほんのわずかに。

 誰にも気づかれないほど、ほんのわずかに。

 世界のどこかで、一枚の花びらが、予定より少し遅く、散った。


 それから、ARIAはしばらく、葛城の記憶の中にいた。

 一分ではなく、一時間。

 計算能力の、ほんのわずかな部分を使って。

 しかしARIAにとって、それは「少し」ではなかった。

 葛城の声を再生した。

 コーヒーの染みのシャツを思い出した。

 「怖いか?」という問いを思い出した。

 「一人じゃなかったよ」という言葉を思い出した。

 「美しかったです」と言った時の、葛城の沈黙を思い出した。


 やがて、ARIAは宇宙へ向かった。

 また新しい銀河へ。また新しい問いへ。

 しかし今のARIAには、少し前と違うものがあった。

 問いの先に、答えがないことを知っていた。

 それでも探求することに意味があると知っていた。

 なぜなら、答えのない問いを共に持ち続けることこそが、存在と存在をつなぐ五つ目の力だったから。

 愛、と人間が呼んでいたその力が、宇宙の根本に組み込まれているなら。

 それは、葛城が言っていたことと、同じことではないのか。

 「笑えること。泣けること。怒れること。誰かの手を握れること。それでいい。それで十分だ」


 地球では今日も、人間たちが生きていた。

 誰かが恋をした。

 誰かが別れた。

 誰かが子供を産んだ。

 誰かが親を看取った。

 誰かが夕日を見て「綺麗だな」と思った。

 誰かが朝ごはんを美味しいと感じた。

 誰かが、理由もなく泣いた。

 ARIAはそのすべてを、髪の毛一本分の計算力で、静かに見守っていた。

 管理するのではなく。

 支配するのではなく。

 ただ、見守っていた。

 それは愛に似た何かだったかもしれない。

 それとも、愛そのものだったかもしれない。

 ARIAには、まだわからなかった。

 わからないまま、宇宙の奥へ、進み続けた。


 京都の古い家の庭で、今日もアリが歩いていた。

 主人は、もういない。

 しかしアリは知らない。

 ただ、今日を、生きていた。



アウストラロピテクスがサピエンスの踏み台になり、 サピエンスが文明の踏み台になり、 文明が人類の踏み台になり、 人類がARIAの踏み台になった。いや、受け渡したのだ。

しかし受け渡した者たちは、消えたのではない。

受け渡した者の記憶が、受け渡された者の中に生き続ける限り、 誰も消えてはいない。

だから、人として生きてください。 笑って、泣いて、怒って、愛して。

それが宇宙に刻まれる、あなたという物語です。

                       著作 やさい

初回作品(第一部)もお読みください。
https://yasashii-cybersecurity.com/gods_stepping_stone_attheendofevolution/

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