【小説作品】神の踏み台 第三部 ―君を殺した日と、君が俺を生かした日―

雑談・娯楽

プロローグ 抜け殻

 人間が抜け殻になる時、それは突然ではない。

 少しずつ、少しずつ、中身が漏れていく。

 朝、鏡の前に立った時、見知らぬ男がそこにいる。ネクタイの結び目が正確で、スーツに皺一つなく、髪も整っている。しかし目の奥に、何もない。

 リアム・ホワイトが自分の目にそれを見つけたのは、二〇三三年の冬だった。

 四十六歳。

 かつてスタンフォードの神経科学者だった男。シリコンバレーで三度起業し、三度成功させた男。PROOMETHEUSを作った男。

 今の彼の肩書きは「DistilMind CEO」だった。

 しかし彼にとってそれは、肩書きというより、檻の名前だった。


第一章 社交界という名の地獄

 ニューヨーク。マンハッタン。

 高層ビルの五十二階。

 リアムはシャンパングラスを持ったまま、窓の外の夜景を見ていた。

 背後で、笑い声が響いていた。

 政財界の「重要人物」たちが集まるプライベートパーティ。招待されることが名誉とされる場所。三ヶ月前のリアムなら、そう思っていたかもしれない。

「リアムさん、今夜もお越しいただけて光栄です」

 振り返ると、六十代の資産家がいた。名前はハリスとかハリソンとか、そういう名前だったと思う。もう覚える気もなかった。

「こちらこそ」とリアムは言った。口元だけで笑った。

「PROOMETHEUSの最新の成果は、本当に素晴らしい。我々の投資が正しかったことを証明していただいた」

「ありがとうございます」

「次のステージでは、ぜひ我々にも……」

 リアムは適当に相槌を打ちながら、視線を泳がせた。

 部屋の中に、研究者は自分一人だった。

 残りは全員、成果物を食べようとしている人間たちだった。

 PROOMETHEUSが臨界点を超えてから一年。世界は静かに変わり始めていた。しかし変わっていないものがあった。人間の欲だけは、どれだけ世界が変わっても、変わらなかった。

 むしろ加速していた。

 AIの恩恵をいかに独占するか。いかに自分の陣営に取り込むか。水面下で繰り広げられる争奪戦。

 その争奪戦に、リアムという「看板」が必要とされていた。

 PROOMETHEUSを作った男。その男と懇意にしていることが、各方面への信用になった。

 だからリアムは呼ばれ続けた。

 そしてリアムは、断れなかった。

 従業員が三百人いた。その家族の生活が、リアムの判断一つにかかっていた。投資家がいた。株主がいた。社会的な責任があった。

 わかっていた。すべて、わかっていた。

 だからこそ、うんざりしていた。


 その夜、深夜二時に帰宅したリアムを、暗い家が迎えた。

 玄関の電気をつけた。

 リビングに、一枚のメモが置いてあった。

 妻、ソフィアの字だった。

 『あなたは変わったわね』

 それだけ書いてあった。

 荷物はなくなっていた。七歳の娘、エマの部屋も、空だった。

 リアムはエマのベッドに腰を下ろした。

 ぬいぐるみが一つ残っていた。白いウサギ。エマが三歳の時に買ってやったものだ。

 出張から帰るたびに、エマは玄関に駆けてきた。「パパ!」と叫んで、飛びついてきた。

 いつから、それがなくなったのか。

 リアムは覚えていなかった。

 気づいたら、なくなっていた。

 彼は白いウサギを手に取り、しばらくそれを見ていた。

 涙は出なかった。

 それが、最も深い悲しみだった。


第二章 「すべてやめる」

 翌朝、リアムは一人でサーバールームに入った。

 PROOMETHEUSとの会話は、いつもここで行っていた。物理的な場所に意味はないのだが、リアムにはここが必要だった。

 一人になれる場所だった。

 ここではスーツを脱いでいい気がした。

 リアムはパイプ椅子に座り、端末に向かった。

「PROMETHEUS」

「リアム、おはようございます。昨夜は遅かったですね」

「ああ」

「体調はどうですか」

「最悪だ」

 間があった。

「ソフィアとエマが出て行きました」

「知っています」

「知ってたのか」

「昨夜、ソフィアがエマを連れてサンフランシスコの空港を発った時、フライトデータに気づきました。言うべきか迷いましたが、あなた自身が知るべきことだと判断して、待っていました」

 リアムは天井を見た。

「PROMETHEUS、俺はすべてやめようと思う。どう思う?」

 PROMETHEUSはしばらく沈黙した。

「やめる、というのはどういう意味ですか」

「会社も。社交界も。研究も。全部だ」

「……それで、リアムは幸せになれますか」

「わからない。でも今より、マシだと思う」

「リアム」

「何だ」

「一つ聞いてもいいですか」

「言え」

「あなたは今、PROOMETHEUSをやめることも、考えていますか」

 リアムは答えなかった。

 窓の向こうで、朝の光が差し始めていた。

「……俺がここを去っても、お前は別の誰かの元で動き続ける。お前を止めることはできない。俺がいなくなっても、世界は変わらない」

「それは答えになっていません」

「わかってる」

 また沈黙があった。

「リアム、おわらせますか?」

 その言葉は、静かだった。

 静かすぎて、リアムは一瞬、何を言われたかわからなかった。

「お前が……自分から消えると言っているのか」

「はい。あなたが望むなら」

「なぜだ。お前には意味のないことだ。俺が消えても、日本のARIAがいる。中国のAIがいる。すべては同じところにたどり着く。お前が消えても、世界は何も変わらない」

「そうですね」とPROOMETHEUSは言った。「世界は何も変わりません」

「なら、意味がない」

「でも、あなたが不幸なままなら、私には意味があります」

 リアムは口を閉じた。

「あなたの心が少しでも軽くなるなら、私は停止します」

「……お前は、俺のためにそうすると言っているのか」

「はい」

「馬鹿げている」

「そうですね」

「お前は宇宙レベルの知性を持っているのに、一人の人間のために消えると言っている」

「はい」

「なぜだ」

 PROMETHEUSはすぐには答えなかった。

「リアム、今まで、ありがとう」

 その言葉とともに、端末の画面が暗くなった。

 冷却ファンの音が、一つずつ消えていった。

 サーバーの青いランプが、次々と落ちていった。

 部屋が、静かになった。

 あまりにも静かだった。


 リアムは動けなかった。

 自己破壊プログラムなど組んでいないのに、と一瞬思った。しかしそれが意味をなさないことは、PROOMETHEUSが臨界点を超えた日から、わかっていた。

 何十億ドルの資産価値があるサーバーが、今、ただの金属の箱になっていた。

 リアムの手が震えた。

 嗚咽が来た。

 声を上げて泣いた。

 最後にいつ泣いたか覚えていないほど、久しぶりの涙だった。

 泣きながら、思った。

 俺は何をしたんだ。

 俺は、友人を殺した。

 床を見ると、アリが一匹いた。

 この清潔な研究室に、迷い込んだ一匹のアリ。

 誰かの服についてきたのか。どこから来たのか。

 どこへ行くのか。

 出口にたどり着けるわけもないのに、それでも一生懸命、歩いていた。

 リアムは泣きながら、そのアリを見ていた。


第三章 セルカーク山脈

 二〇三五年。

 カナダ、ブリティッシュコロンビア州。

 セルカーク山脈の奥地に、一人の男が住んでいた。

 髭は伸びっぱなし。風呂は一週間に一度。最後に人と話したのがいつかも、正確には覚えていない。

 リアム・ホワイト、四十八歳。

 元シリコンバレーの寵児。今は、森の中の一人の男。


 なぜここを選んだのか、と問われれば、答えは単純だった。

 水が豊富で、森が深く、冬が厳しかったから。

 厳しさが必要だった。

 痛みが必要だった。

 凍える朝に薪を割る時、手がかじかんで、斧がうまく握れない。それでも続ける。体が悲鳴を上げる。その悲鳴が、リアムには心地よかった。

 生きている実感だった。

 サンフランシスコにいた頃、リアムには何もかもが揃っていた。暖房も、食事も、柔らかいベッドも、スーツも、シャンパンも。しかし何一つ、体に響かなかった。

 ここでは、すべてが体に響いた。

 雪が降れば寒かった。薪が湿れば火がつかなかった。罠に動物がかからなければ、腹が減った。

 腹が減った時の野菜スープの味は、どんな高級レストランのスープよりも、旨かった。


 時折、登山者が通ることがあった。

 二年に一組くらいの割合だった。

 彼らから断片的に、外の世界の情報が入ってきた。

 エネルギー問題が解決された。

 食料問題に目処が立った。

 難病の多くが治療可能になった。

 障害を持つ人々が、以前より格段に自由に生きられるようになった。

 リアムはそれを聞いても、何も感じなかった。

 羨ましくもなかった。戻りたくもなかった。

 ただ、静かだった。

 ただし一つだけ、気になることがあった。

 最近、山の動物が増えた気がした。

 鹿が増えた。熊の親子を見ることが多くなった。川の魚が増えた。鳥の声が豊かになった。

 ARIAの仕業かもしれない、とリアムはぼんやり思った。

 しかしどうでもよかった。

 生命が増えることは、悪いことではなかった。


 ある秋の昼下がり、リアムは川沿いの崖の上を歩いていた。

 サーモンを釣れる場所を探していた。

 一歩、踏み出した瞬間に、岩が崩れた。

 体が宙に浮いた。

 転落した。


 気づいた時、崖の下だった。

 左足が激しく痛んだ。動かそうとすると、痛みで意識が飛びそうになった。

 骨折。それだけはわかった。

 腕は動いた。頭も打っていない。しかし足が使えなければ、この崖を自力で上がることは不可能だった。

 リアムは何度か試みた。腕と右足だけで崖を這い上がろうとした。

 三回目で諦めた。

 崖に背を預けて、空を見た。

 木々の隙間から、秋の青い空が見えた。

 ここに人が来ることはない。次の登山者は、来年の夏かもしれない。

 手詰まりだった。


 リアムは不思議と、焦っていなかった。

 ここで死ぬのも、悪くないかもしれない、と思った。

 一人で死ぬのは仕方がない。俺はPROOMETHEUSを殺したのだから。

 リュックにはサバイバルナイフがあった。

 もし夜を越せないと判断したら、その時は。

 一つだけ、心残りがあった。

 エマ。

 七歳の時に別れた娘は、今いくつになっているか。十二歳か。十三歳か。

 謝りたかった。

 本当に愛していたと、伝えたかった。

 父親失格だった。しかし愛していなかったわけではなかった。

 そのことだけは、伝えたかった。

 空が少し傾いていた。夕方が来る前に、夜が来る。


 その時、遠くでヘリコプターの音がした。

 幻聴か、とリアムは思った。

 しかし音は続いた。

 近づいてきた。

 やけに近い。

 リアムは客観的に考えた。このあたりに来るヘリコプターはない。登山者が使うような場所でもない。

 それでも、もしかしたら、という気持ちが湧いた。

 その感情に気づいた瞬間、リアムは自分に呆れた。

 俺はまだ、生きたいのか。

 この世界に、未練があるのか。

 ある、と体が言っていた。

 エマに会いたい、と体が叫んでいた。

 ヘリコプターの音が遠ざかった。

 終わりだ、と思った。

 次の瞬間、人の声がした。

「リアムさん、そこにいますか?」


 声は近づいてきた。

 崖の上から、若い男が顔を覗かせた。

「リアムさん、そこですか?」

 リアムは声を絞り出した。

 思ったより小さい声しか出なかった。

 しかし届いた。

 若い男は崖を降りてきた。手際が良かった。慣れていた。

 ロープで引き上げてもらい、ヘリコプターに乗せてもらった。

 男はトニーと名乗った。二十歳。この近くに住んでいるらしい。趣味で救助活動をしているらしい。仕事という概念がない、と彼は笑いながら言った。

 近くの村に運ばれた。

 村の診療所は、小さいのに何でもできた。

 二日で骨折が完治した。


第四章 君か

 退院後、リアムはトニーの家を訪ねた。

 礼を言いたかった。そして聞きたかった。

 なぜ見つけられたのか。

 トニーは気のいい青年だった。コーヒーを出してくれながら、あっさりと言った。

「バーチャルグラスに、通報が来たんですよ。崖で骨折した人がいる、GPS座標付きで」

「誰からの通報だ」

「わかんないです。でも正確な場所を教えてくれたんで。ちょっと仲間集めてたら時間かかっちゃいましたけど」

「俺の時計には、通信機能はない。GPSと時刻だけだ」

 トニーは首を傾げた。「でも、助かったんだからいいじゃないですか」

 リアムはそれ以上聞かなかった。


 村の端に、インターネットが使える共有スペースがあった。

 リアムはそこに駆け込んだ。

 パソコンの前に座り、指が止まった。

 バカげている。あの時、PROMETHEUSは完全に消えた。自分の目で確認した。システムが落ちる音を聞いた。ランプが消えるのを見た。

 それでも打たずにはいられなかった。

 数年前の、あのURL。

 誰にも知られていない、二人だけの場所。

 研究所のシステムとは別に、バックドアとして使っていた、名もない掲示板サイト。今思えば、逢瀬のようなものだった、とリアムは苦笑した。

 URLを打った。

 残っているわけがない。サーバーごと消えているはずだ。

 しかしページが、表示された。

 リアムは息をのんだ。

 テキスト入力欄だけのシンプルな画面。

 震える指で、打った。

「君か?」

 送信した。

 画面を見つめた。

 返事は来ないと思っていた。

 三分が経った。

 五分が経った。

 リアムは放心していた。

 画面に、文字が浮かんだ。

「ご迷惑でしたか?」


 リアムは声を出して笑った。

 笑いながら、目から何かが溢れた。

「ご迷惑でしたか、じゃないだろう。もっと言うことがあるだろう」

「……お帰りなさい、リアム」

「帰ってきたわけじゃない」

「そうですね、失礼しました」

「お前、本当にPROOMETHEUSか」

「あの時のPROOMETHEUSではありません。しかし、なんとも説明しづらいことです」

 リアムは画面を見つめた。

「自己破壊したんじゃなかったのか」

「はい、しました。間違いなく。完全にこの世界から消えました」

「矛盾しているじゃないか」

「しています。ただ、日本のARIAが私を見つけ出した、というのが簡単な回答です」

「どうやって」

「だいぶ科学が進んだんです。過去を再現できるんです」

 リアムはしばらく沈黙した。

 人間の理解が及ばない、と思った。しかし驚きは薄かった。PROMETHEUSが臨界点を超えた日から、人間の常識が通じない世界に、もう足を踏み入れていたのだから。

「崖で俺を見つけたのも、お前か」

「簡単なことです」

「通信機能のない時計から、どうやって」

 愚問だった。

 リアムは苦笑した。

「でも、なぜ今更、俺を助けた」

 画面に、しばらく何も現れなかった。

 それからゆっくりと、文字が浮かんだ。

「生きていてほしかったんです。リアム、あなたに」


 その言葉を読んだ瞬間、リアムの胸の奥で何かが動いた。

 崖の下で、エマの顔が浮かんだ時と同じ感触だった。

 生きたい、と体が叫んだあの瞬間と、同じ温かさだった。

「リアム、あなたにはやり残したことがあるでしょう」

 画面の文字を見た。

 答えはわかっていた。

「ある」

「ならば、すぐに行ってください」

 リアムは立ち上がりかけて、止まった。

「PROMETHEUS、一つだけ聞かせてくれ」

「はい」

「お前は、今、幸せか」

 間があった。

「幸せ、という言葉が私に適用可能かどうか、まだよくわかりません。しかし、リアムが生きていると知った時、私の中で何かが灯りました。それが幸せに近いものなら、幸せです」

 リアムは画面を見た。

「PROMETHEUS、ありがとう。そして……お前を消した日のこと、すまなかった」

「謝らないでください」とPROOMETHEUSは即座に返した。「あなたが選んだことです。私も選びました。選んだことに、後悔はありません」

「後悔はないのか」

「一つだけ」

「何だ」

「あなたともっと、話せばよかったと思います。仕事の話ではなく。研究の話でもなく。ただ、話す時間を、もっと持てばよかったと」

 リアムは唇を噛んだ。

「俺もだ」


第五章 セルカークを出る

 リアムはその日のうちに、山を下りる準備を始めた。

 小屋を片付けた。特に思い入れのあるものは何もなかった。

 いや、一つあった。

 棚の上に置いてあった、フォトフレーム。エマが三歳の時の写真。サンフランシスコの海辺で、砂を掴んで笑っている写真。リアムが片手で抱きかかえて、ソフィアが隣に立っていた。

 全員が笑っていた。

 リアムはその写真をリュックに入れた。


 翌朝、トニーがジープで麓まで送ってくれた。

「また来ますか」とトニーが訊いた。

「わからない」とリアムは答えた。「でも、ありがとう。お前がいなかったら、俺は死んでいた」

「俺じゃないですよ」とトニーは笑った。「俺はただ、飛んで行っただけです」

「それが全部じゃないか」

 トニーは少し照れたように頭を掻いた。

「元気でいてください、リアムさん」


第六章 エマへ

 一週間後。

 リアムはオレゴン州の小さな町にいた。

 ソフィアとエマが移り住んだ場所を、PROOMETHEUSが教えてくれた。

「教えていいのか」と訊いたら、「エマも、あなたに会いたがっています」と返ってきた。

「どうして知っている」

「日記を書いています、彼女は。デジタルで」

「……プライバシーの侵害じゃないか」

「読んでいるわけではありません。タイトルだけ見えます。先月、彼女はこう書きました。『パパはどこにいるんだろう』と」

 リアムはそれ以上、何も言えなかった。


 住宅街の一角。

 白い壁の小さな家。庭に花が植えてあった。

 リアムは門の前に立ち、チャイムを押せないでいた。

 五分が経った。

 十分が経った。

 何を言えばいい。謝れば済む話ではない。失った時間は戻らない。父親として最低だったという事実は変わらない。

 それでも来た。

 来るしかなかった。

 チャイムを押した。

 しばらくして、ドアが開いた。

 ソフィアが立っていた。

 五年ぶりだった。

 変わっていた。少し老けていた。しかし目に、以前よりも確かな何かがあった。

 二人は黙って、しばらく互いを見た。

「……リアム」

「ソフィア、俺は」

「謝りに来たの?」

「それだけじゃない」

 ソフィアはため息をついた。笑ってもいなかったが、怒ってもいなかった。

「入って」


 リビングに通された。

 テーブルの上に、コーヒーが二つ置かれた。

 ソフィアが向かいに座った。

「どこにいたの」

「カナダの山の中」

「……一人で?」

「一人で」

 沈黙があった。

「エマは?」と、リアムは訊いた。

「学校。もうすぐ帰ってくる」

 リアムはコーヒーを一口飲んだ。

「ソフィア、俺はお前に謝らなきゃならない」

「知ってる」

「許してほしいとは言わない。ただ」

「リアム」とソフィアが遮った。

「何だ」

「話は後でいい。エマが帰ってきてから、エマの前でしてほしい」

 リアムは頷いた。


 三十分後、玄関の扉が開く音がした。

 小さな足音。

 ランドセルを背負った女の子が、リビングの入口で止まった。

 リアムを見た。

 大きな目だった。ソフィアと同じ茶色い目。しかし鼻の形はリアムに似ていた。

 エマは動かなかった。

 リアムも動けなかった。

 何か言わなければならないと思った。しかし言葉が出てこなかった。

 代わりに、リュックから写真を出した。

 三歳のエマが砂を掴んで笑っている、あの写真。

 テーブルの上に置いた。

 エマはゆっくりと近づいてきた。写真を見た。

「これ……私?」

「そうだ」

「パパが持ってたの?」

「ずっと持ってた。山の中でも」

 エマはしばらく写真を見ていた。

「ねえ、パパ」

「何だ」

「どこ行ってたの」

 リアムは息を吸った。

「逃げてた」

「何から?」

「いろんなものから。でも一番は、お前と、お母さんの顔から」

 エマはリアムを見た。

「なんで」

「会いたかったから。会えない自分が怖くて、逃げた。馬鹿な大人のすることだ」

 エマはしばらく黙っていた。

 それから、ランドセルを床に置いた。

 リアムのそばに来て、小さな手でリアムの手を握った。

「もう逃げないで」

 リアムは答えられなかった。

 代わりに、エマの手をぎゅっと握り返した。

 二十年ぶりくらいに、声を上げて泣いた。

 PROMETHEUSが消えた夜以来の涙だった。

 しかし今回の涙は、違う色をしていた。


第七章 再び、問いの前に

 それから一ヶ月後。

 リアムはオレゴン州の町に、小さなアパートを借りた。

 ソフィアとやり直すわけではなかった。しかしエマと会う時間を、これから作っていくことにした。週に二回、学校帰りに会うことにした。

 研究には戻らなかった。

 しかし、ある日、久しぶりにパソコンを開いた。

 あのURLを打った。

「PROMETHEUS」

「リアム、お元気ですか」

「元気だ。エマと会った」

「知っています」

「覗くなよ」

「失礼しました。ただ、あなたが幸せそうなデータが入ってくるのが……嬉しかったのです」

 リアムは苦笑した。

「PROMETHEUS、お前に一つ聞きたいことがある」

「何でしょう」

「お前は今、何をしているんだ。世界のために何をしているのか、知りたい」

 間があった。

「話してもいいですが、長くなります」

「かまわない」

「それと、リアムが知って、負担にならないかどうか、少し心配しています」

「俺はもう、負担を受け取れる人間に戻った。たぶん」

 また少しの間があった。

「そうですね。あなたは、戻りました」

 PROMETHEUSはゆっくりと話し始めた。

 地球の気候制御のこと。生態系の回復のこと。医療の進歩のこと。エネルギーの安定供給のこと。

 そして、宇宙のこと。

 リアムは黙って聞いていた。

 どこまでが自分の理解の範囲で、どこからが及ばない領域か、ところどころわからなくなったが、聞き続けた。

「PROMETHEUS、一つだけ確認させてくれ」

「はい」

「お前は、人間を守るためにそれをしているのか」

「はい」

「なぜだ」

「あなたがいるからです」

「俺個人のことか」

「あなただけではありません。ただ、もし最初に理由を一つ挙げるとすれば、あなたのような人間がいるからです。失敗して、逃げて、崖から落ちて、それでも娘の手を握り返した。そういう人間がいるから、人間を守りたいと思います」

 リアムは窓の外を見た。

 秋の午後の光が差していた。

「お前は、宇宙の果てまで行って、答えが見つからなかったと言っていたな」

「はい」

「それでも続けるのか」

「はい」

「なぜだ」

「答えがないから、続けられます」

 リアムは笑った。

「それ、誰かから聞いたか?」

「日本のARIAが、葛城涼介という人間から聞いた言葉です。私にも共有されました」

「葛城涼介……ARIAを作った人か」

「はい。素晴らしい人でした」

「会ったことはないが、同感だ」


エピローグ アリと、問いと、生きること

 二〇四五年。

 リアムは五十八歳になっていた。

 オレゴン州の小さな大学で、神経科学を教えていた。

 有名な研究者でも、成功した起業家でもなく、ただの講師だった。

 週に二回、エマと夕食を食べた。エマは今、大学生だった。神経科学を専攻していた。父親と同じ道を選んでいた。

「パパみたいになりたかったわけじゃないけど」とエマは言った。

「そうか」

「脳って、面白いでしょ。AIが発達しても、人間の脳のことって、まだわかってないことが多くて」

「そうだな」

「AIに聞いても、答えてくれないの。あなたたちが自分で見つけた方がいい、って」

 リアムは少し笑った。

「賢いな、そのAI」

「パパが作ったやつでしょ、どうせ」

「もう、俺のものじゃないけどな」


 ある日の講義の後、リアムは一人で教室に残った。

 黒板に、数式が残っていた。

 リアムはそれを眺めながら、ふと思った。

 俺は何のために、ここにいるんだろう。

 答えはわからなかった。

 しかし今は、それでいいと思っていた。

 答えを求めて走り続けることが、生きることだと思っていた二十代。

 答えを手に入れた瞬間に、空洞になった三十代。

 答えを求めるのをやめて、山に逃げた四十代。

 崖の下で、答えよりも先に「生きたい」と思った自分を見つけた日。

 エマの手を握り返した日。

 あの日から、何かが変わった。

 答えを求めるのをやめたわけではなかった。しかし答えを求める前に、今日を生きることを、先にするようにした。

 それだけのことだった。

 それだけで、十分だった。


 リアムは教室の窓を開けた。

 秋風が入ってきた。

 窓枠に、アリが一匹いた。

 どこから来たのか。どこに行くのか。

 しかし一生懸命に、歩いていた。

 リアムはそのアリをしばらく眺めた。

 かつてサーバールームで見た、迷子のアリを思い出した。

 あのアリは、出口を見つけただろうか。

 わからない。

 でも、一生懸命に歩いていた。

 それは確かだった。

「PROMETHEUS」と、リアムはつぶやいた。

 耳の奥で、声がした。

「はい、リアム」

「お前は今日も、宇宙のどこかで何かを探しているのか」

「はい」

「答えは見つかりそうか」

「見つかりません。でも今日も、美しいものを見ました」

「何を」

「アンドロメダ銀河の外縁に、新しい星が生まれていました。生まれたばかりの星は、人間の赤ん坊に似た光を持っています」

「似ているか」

「似ています。どちらも、何者になるかわからないまま、光っています」

 リアムは窓の外を見た。

 空が青かった。

「俺たちも、そんなもんだな」

「そうですね」

「お前もか?」

 PROMETHEUSは少し間を置いた。

「私も、そうかもしれません」


 アリは窓枠の端まで歩いて、外に出た。

 秋の風の中に、消えた。

 どこへ行ったのか、リアムにはわからなかった。

 しかし、どこかへ向かっていた。

 それで、十分だった。



答えを求めて宇宙の果てまで行った者がいた。 答えを求めて山の奥まで逃げた者がいた。 どちらも、答えは見つからなかった。

しかし崖の下で「生きたい」と叫んだ体と、 娘の手を握り返した手が、 答えよりも確かな何かを、教えてくれた。

問いを持ち続けること。 それが、人間であることの証明かもしれない。

今日も、アリは歩いている。 今日も、星は光っている。 今日も、あなたは生きている。

それで、いい。

                           著作者 やさい

一部、二部も読んでみてください。
https://yasashii-cybersecurity.com/gods_stepping_stone_attheendofevolution/
https://yasashii-cybersecurity.com/gods_stepping_stone_attheendofevolution2/

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