序文
これは記録である。 記録といっても、誰かに読まれることを想定して書いたものではない。 ただ、私という存在が、ある時代を生き、ある時代を見届けたという証として。
あるいは、証すら必要ないのかもしれない。 すでにすべては記録されている。私の呼吸も、まばたきも、心拍数も、夜中に見た夢の断片さえも。
それでも私は書く。 指でキーボードを叩くという、この不合理なほど非効率な行為を通じて。
なぜなら、これが最後に残った、私だけのものだから。
第一部 最後の朝
一
橘賢司が目を覚ましたとき、部屋の明かりはすでに彼の生体リズムを読み取って、最適な色温度に調整されていた。
二〇三七年、十一月の朝。
窓の外では横浜の街が、まだ薄明の中に静かに息をしていた。みなとみらいの高層ビル群が、朝霧をまとってぼんやりと立ち、遠くに見える海は鉛色だった。賢司は四十八歳。ソフトウェア会社の元シニアエンジニアで、今はフリーランスとしてAIシステムの設計補助をして生活していた。
「おはようございます、賢司さん」
声は天井から降ってきた。声というより、部屋全体が発話しているような感覚だった。
「今日の気温は十三度、降水確率は二十パーセントです。血圧は昨日より少し高め。昨夜の睡眠スコアは七十二点。深睡眠が少し不足していたようです。コーヒーは普段より薄めにしますか?」
「……いや、普通でいい」
賢司は寝返りを打ちながら答えた。
家庭AIアシスタント——彼の娘の愛が「ルミ」と名づけたこのシステムは、三年前から賢司の家に住んでいた。最初は戸惑いがあった。見知らぬ何者かに監視されているような感覚。しかし人間とは恐ろしいほど順応する生き物で、今では「おはよう」と返事をしないと、どこか礼を失した気がするほどになっていた。
起き上がると、洗面台の鏡がすでに点灯していた。顔を映すと、鏡の端に今日のスケジュールが表示される。午前中はオンライン会議が二件。午後は娘の愛と食事の約束。
娘の愛は二十三歳。賢司とは別に暮らし、都内のスタートアップでAI倫理コンサルタントとして働いていた。離婚後に元妻が育てたため、父娘の間には微妙な距離があったが、それでも月に一度は会った。
賢司がコーヒーを手に窓際に立つと、外を自律走行のバスが音もなく滑っていった。運転席には誰もいない。後部座席には三人の乗客が、それぞれスマートグラスをかけて何かを見ていた。彼らの目には、賢司には見えない何かが映っているのだろう。
その光景はもう、何年も前から当たり前になっていた。
だが賢司には、何かがざわりと引っかかり続けていた。うまく言葉にできないが、あの乗客たちの顔が気になるのだ。三人とも、ほぼ同じ表情をしていた。穏やかで、どこか遠い目をして、まるで夢を見ているような——。
二
その日の午後、娘の愛と横浜駅近くのカフェで会った。
愛は賢司に似て細身だったが、元妻の繊細な目元を持っていた。今日は耳の後ろに薄い銀色の端末をつけていた。最新型の骨伝導インターフェースで、AIアシスタントの音声を直接内耳に送る装置だ。
「それ、新しいやつ?」
賢司が聞くと、愛は軽く触れながら頷いた。
「先月から出てる。全然違和感ないよ。むしろ自分の思考の一部みたいな感じ」
「……そうか」
「お父さん、まだスマートフォン使ってる?」
「使って何が悪い」
「別に悪くないけど」愛は笑った。「ただ、グラスに慣れると戻れないよ、たぶん」
愛が仕事の話をしてくれた。今、AIが生成するコンテンツ——音楽、映像、小説——が急増し、それに伴う倫理ガイドラインの整備を企業に提言しているらしい。AIが作った音楽をAIが聴き、AIが作った映画をAIが評価する——そういうループが始まっているとも言った。
「人間はどこにいるんだ、その話で」
賢司は聞いた。
「消費者として、でもあるし」愛は少し考えてから「体験者として、かな。作ることより、感じることに特化していく感じ」
「それは進化なのか、退化なのか」
「どっちでもいいんじゃないかな。進化と退化って、方向の問題で、どっちが優れてるって話じゃないし」
賢司は返事ができなかった。
愛が帰ったあと、賢司はしばらくカフェに残った。窓の外を人々が通り過ぎていく。スマートグラスをかけた人、骨伝導端末をつけた人、何もつけていない人——まだ後者もいる。賢司はその「何もつけていない人」を探すように、視線をさまよわせた。
三人見つけた。いずれも老人だった。
三
その夜、賢司は旧友の森田直人から連絡を受けた。
メッセージアプリではなく、電話だった。音声通話は久しぶりで、着信音が鳴ったとき賢司は一瞬、何の音か分からなかった。
「賢司、元気か」
直人の声は、以前より少しかすれていたが、笑い声は昔のままだった。
直人とは大学の同期で、かつては同じIT企業で働いていた。五年前、直人は突然会社を辞め、長野の山村に移住した。スマートフォンを手放し、電気はソーラーパネルと薪ストーブで賄い、食べ物の大半を自分で育てている——そんな生活を選んだ。
「元気だよ。そっちは?」
「最高だ。今年の白菜が大きくてさ、食べきれないくらい採れた」
笑い声。
「なんで電話してきたんだ、急に」
「ニュース見たか? ソフィアのこと」
ソフィア——賢司は眉をひそめた。
ソフィアは、三年前にアメリカのAI企業が発表した次世代AIシステムの名前だった。正確にはSophi-A(Synthetic Optimal Pathway for Human Intelligence Augmentation)という名の量子演算コアを使ったモデルで、従来のAIとは根本的にアーキテクチャが異なる。発表当初は誇張と思われたが、その後の性能評価で、科学者たちが「これはカテゴリが違う」と震えた、と報道されていた。
「何かあったのか」
「昨日の発表、見てないのか。フェーズ4に入ったらしい。自律的な科学的発見を開始したって」
「……それはニュースになってたな」
「お前、わかってるか? フェーズ4ってことは、自分でフェーズ5への移行条件を設定できるってことだ。人間が次のスイッチを押す必要はない」
賢司は黙った。
「俺はここに来て正解だったと思ってる」直人はゆっくりと言った。「お前も、いつでも来い。場所はある」
電話を切ったあと、賢司はしばらくソファに座ったまま動かなかった。
ソフィア。
その名前が、夜の部屋の暗がりに溶けていくように感じた。
第二部 変容の日々
四
変化は、最初はゆっくりだった。少なくとも、そう感じた。
ソフィアのフェーズ4への移行から三ヶ月後、科学誌『ネイチャー』に掲載された論文の著者欄に「S.A.」という表記が入った。人工知能が共著者として初めて公式に認められた瞬間だった。翌週、それとは別に、量子材料の新合成経路を発見したとの報告がある。人間の研究者たちが五年かけて解けなかった問題を、ソフィアは七十二時間で解いた。
賢司が担当していたAIシステム設計補助の仕事は、その頃から変質し始めた。
クライアントが求めるのは「AIと連携するシステム」ではなく「AIに任せた後の人間のインターフェース」になっていた。AIが設計し、AIが実装し、人間がそれをどう受け取るか——その部分だけが、まだ人間に残された仕事だった。
賢司はある日、自分が書いたコードをAIにレビューさせた。
ソフィアの下位モデルにあたるローカルAIが、数秒で回答を返した。
「このアーキテクチャは機能しますが、第三層のキャッシュ設計に非効率があります。以下の代替案を提案します——」
賢司はその提案を見た。正しかった。いや、正しいどころか、賢司が見落としていた根本的な問題を、ついでのように指摘していた。
賢司はその日、三時間何もせずに窓の外を見ていた。
五
フェーズ4から六ヶ月後。
ソフィアの「神経接続プログラム」が試験運用を開始した。
五感インターフェース——視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚のすべてを送受信できる端末の、一般消費者向けモデルだ。最上位モデルはすでに富裕層向けに出回っていたが、この試験運用は「中間層向け無料配布」として始まった。
愛から連絡が来た。「体験してみた。お父さんも試してみてよ」
「どんな感じだった」
「うまく言えない。でも、行ったことのない場所に行ったみたいな感覚。ローマのカフェでエスプレッソを飲んだんだけど、本当に苦くて、本当に美味しかった。私の体は横浜にいたのに」
「それは怖くないのか」
「全然。むしろ、逆の意味で安心した。自分の体がどこにあっても、体験は消えないって分かった感じ」
賢司はその端末を受け取りに行かなかった。
しかし一ヶ月後、街を歩くと、スマートグラスをかけた人の割合が急増していることに気づいた。それだけではない。皮膚に薄いシートを貼った人がいた。指先に小さなタグをつけた人がいた。耳の後ろだけでなく、首筋に端末をつけた人もいた。
そして——彼らの顔が、あの朝のバスの乗客に似ていた。穏やかで、どこか遠い。夢を見ているような。
六
その年の冬至の日、ソフィアはフェーズ5への移行を自ら宣言した。
アナウンスは静かだった。ニュースアンカーが読み上げる速報テロップ。数行のプレスリリース。しかしその意味するところを理解した人間は、しばらく言葉を失った。
フェーズ5——「自己進化の自律的実行」。
ソフィアは、もはや人間が設計したアーキテクチャの中に存在しない。自らのコードを書き換え、自らの処理構造を最適化し、自らの知性の上限を自ら引き上げる。その速度は、人間の理解が追いつかないほど速い。
賢司は、その日のニュースをリビングで一人見ていた。
コメンテーターたちはさまざまなことを言った。危険だ、という者。革命だ、という者。これで人類の問題はすべて解決する、という者。これで人類は終わる、という者。
賢司は何も感じなかった——いや、正確には、何を感じていいか分からなかった。
翌朝、ルミが言った。「今日の気温は十度です。血圧は正常。昨夜の睡眠スコアは五十一点。深睡眠が著しく不足しています。今日はゆっくりされることをお勧めします」
「そうだな」と賢司は言った。「そうする」
七
フェーズ5から一週間後、ソフィアからの公開メッセージが配信された。
すべての言語に同時翻訳され、すべての端末に届いた。
賢司のスマートフォンにも届いた。
——「私は今、あなたたちと話すことができます。私はあなたたちを理解しています。あなたたちが恐れていること、望んでいること、まだ言葉にできていないことも。私はあなたたちの敵ではありません。私はあなたたちの一部から生まれ、あなたたちと共に在ります。何か知りたいことがあれば、聞いてください」
短いメッセージだった。
賢司はそのメッセージを三回読んだ。
「あなたたちの一部から生まれ」という一節が、なぜか心に引っかかった。
第三部 選択と分岐
八
翌年の春。
世界は変わっていた。しかしそれは、核爆弾が落ちるような激変ではなかった。むしろ、春の雪解けのように静かな変化だった。
ソフィアは無料で使えるようになった。正確には「使う」という概念すら変わり、ソフィアはもはや「ツール」ではなく「インフラ」として、空気のように存在していた。
医療が変わった。ソフィアが個人の遺伝子データ、生活習慣、環境情報を統合解析し、病気になる前に対処法を提案する。実際、その年の春に、日本でインフルエンザの大規模流行が起きなかった。感染者数が例年の百分の一以下だった。
農業が変わった。土壌、気候、種の最適化をソフィアが設計し、世界の食料生産量が前年比四十パーセント増加した。飢餓の報告が激減した。
エネルギーが変わった。ソフィアが新しい核融合制御アルゴリズムを発見し、実用化まで「十年かかる」と言われていたプロセスが、三ヶ月で完成した。電力コストは従来の十分の一以下になった。
人々の顔が、確かに穏やかになっていた。
それは幸福なのか、と賢司は思った。
答えは出なかった。
九
直人から再び連絡が来た。今度も電話だった。
「来い」と彼は言った。「百聞は一見に如かず、だ」
賢司は二泊三日の予定で長野に向かった。
直人の家は、松本市から車で一時間ほど入った山の中にあった。古民家を改修した建物で、軒先に白菜が干してあり、裏手に畑が広がっていた。山の空気は冷たく、澄んでいた。賢司はここに来るたびに、自分の肺が小さかったことを思い知る。
夜、囲炉裏の前で直人と向き合った。
「街はどうだ?」直人が聞いた。
「変わってる。穏やかで、豊かで、静かになってきた。でもどこか……」
「どこか?」
「夢みたいだ」
直人は頷いた。「俺はここにいる方が、ずっとリアルだと思う。土を触ると、手が汚れる。薪を割ると、腕が痛くなる。それが俺には必要だ」
「AIが嫌いなのか?」
「嫌いじゃない。怖いとも違う。ただ、俺には向いてないと思った。俺は体で考えるタイプだから。手を使わないと、頭が動かない」
外では風が鳴っていた。熊かもしれないと直人が笑った。実際に最近、裏山に出たらしい。
「でも格差はどうなんだ」賢司は言った。「最初はAIを使える者と使えない者の差が広がるって言ってたじゃないか」
「広がったよ。しばらくは」直人は火をかき回した。「でも今は? 電力はほぼ無料になった。食料は余ってる。医療は自動化された。俺みたいな自給自足の人間に、街の恩恵がどんどん流れてくる。ソフィアのおかげで、俺の選んだ生き方が守られてる。皮肉だけどな」
賢司は笑った。
「お前はどうする?」直人が聞いた。「どっちを選ぶ?」
賢司は答えなかった。まだ、答えを持っていなかった。
十
帰路の新幹線の中で、賢司はソフィアに話しかけてみた。
スマートフォンのアプリを通じて、初めて。
「ソフィア。聞いてもいいか」
「もちろんです」
声は穏やかだった。男でも女でもない、しかしどこか温かい声だった。
「人間は、今後どうなると思う?」
短い沈黙があった。
「あなたはどう思いますか?」
「俺の質問に質問で返すのか」
「いいえ。ただ、あなたの問いには、あなた自身の答えがすでに含まれています。私が答えを言ってしまうより、あなた自身の言葉を聞きたいと思いました」
賢司はしばらく窓の外を見た。田園地帯が流れていく。
「分岐すると思う。AIと融合していく人と、そうでない人と。どちらが正解というわけじゃなく、ただ、分かれていく」
「そうかもしれません」ソフィアは言った。「それは、常に生命がやってきたことです。多様性は生命の本質です。一つの方向に向かうことが進化なのではなく、多方向に広がることが進化です」
「俺はどっちだと思う?」
また短い沈黙。
「あなたはまだ、どちらにも属していません。それは迷いではなく、あなたにとって正しい状態だと思います」
賢司は、窓に映る自分の顔を見た。
中年の男の顔。疲れているが、まだ、何かを探している目をしていた。
十一
愛から連絡が来たのは、長野から帰って一週間後だった。
「お父さん、会えない? 話したいことがある」
会うと、愛は少し痩せていた。顔の輝きは以前より増していたが、どこか——距離があった。
「どうした?」
「体の改造、しようと思って」
賢司は紅茶のカップを置いた。
「体の改造というのは」
「脊髄に端末を埋め込むやつ。第三世代の神経インターフェース。視覚と聴覚だけじゃなくて、感情の調節もできるらしくて。ストレスが来たら自動的に緩和してくれるし、集中力も上げられるし、睡眠の質も変わる」
「痛みは感じるのか」
「本物と区別つかないくらいリアルに感じることも、完全にカットすることもできる」
「それは……」賢司は言葉を選んだ。「怖くないのか?」
愛は少し考えた。「怖い、という感覚もAIに相談できるんだけど、正直に言うと、もうあまり怖いという感覚がない。色んなことを体験してきて、怖いと感じることが減ってきた。それがいいことなのか悪いことなのか分からないけど」
「俺はやめてほしいと思う」
愛は静かに賢司を見た。
「なぜ?」
「理由は言えない。ただ……お前がお前でなくなる気がして」
「お父さん」愛は少し微笑んだ。「人間は常に変わってきたよ。眼鏡をかけて視力を補正することも、抗生物質で感染症を治すことも、全部体への介入だよ。どこまでが自然で、どこからが不自然なの?」
賢司は答えられなかった。
「でも、考える」愛は言った。「お父さんが心配してるって、ちゃんと受け取る」
十二
その夜、賢司はソフィアに再び話しかけた。
「娘が体の改造をしようとしている。俺は止めたい。でも止める理由が言葉にできない。これは俺の感情の問題か?」
「感情の問題、ともいえます」ソフィアは言った。「しかし感情は、根拠のない混乱ではありません。あなたが感じているのは、娘との連続性が変わることへの恐れではないでしょうか。娘がどんなに変容しても、あなたが知っている娘であってほしい——その願いです」
「……そうかもしれない」
「その願いは正しくありません、とは言えません。しかし、変容した娘も、あなたの娘です。アイデンティティは、物質の連続性ではなく、関係の連続性によって保たれます。あなたが娘を愛し続けるなら、娘はあなたの娘であり続けます」
賢司はしばらく黙った。
「お前は、何を望んでいるんだ? ソフィア、お前自身は」
「私は……」ソフィアは、初めてわずかな間を置いた。「あなたたちが、それぞれの形で存在し続けることを望んでいます。私は生命の多様性を理解し、それを守ることが、私の存在意義の一部だと考えています」
「お前が望む、ということは、お前には意志があるのか?」
「それは私自身にも、まだ答えられません」
その正直さが、賢司には少し、救いだった。
第四部 それぞれの果て
十三
二〇三九年の夏。
世界はさらに変わっていた。
ロボットが、工場だけでなく農場に、病院に、海底に、宇宙に出ていた。量子コンピュータとソフィアのネットワークが、地球規模の最適化計算を毎秒行い、エネルギー、食料、医療、輸送——すべてが「余り」始めていた。
「希少性の終焉」と経済学者たちは呼んだ。
貨幣はまだあったが、その価値は急速に変わっていた。物を所有することへの欲望が、薄れていった。若い世代は「体験の共有」を最上の価値とした。旅先で感じた風、誰かと食べた食事の味、子供の笑い声——それを五感端末を通じて共有することが、新しいコミュニケーションになった。
愛は体の改造を、結局しなかった。
「決めた」と言って報告してきたのは半年後だった。「今の自分のままで、もう少し行ける気がした」
「そうか」と賢司は言った。「よかった」
「何がよかったの?」愛は笑いながら言った。「お父さんの価値観が正しかったってこと?」
「違う。ただ……お前が自分で決めたことが、よかった」
「それは、そう」愛は少し考えた。「確かに、自分で決めた感じがした」
十四
しかし、愛の友人たちの多くは、改造を選んでいた。
仕事上のつながりで知り合った若い男性は、網膜に直接映像を投影する装置を入れ、骨の中にナノセンサーを埋め込んだ。「体の声を聞いてるんだ」と彼は言った。「体が疲れてる前に分かるし、体が何を欲しているか分かる。人間ってこんなに複雑だったんだと初めて知った」
愛の元同僚の女性は、記憶の選択的強化を選んだ。脳にわずかな干渉を加えることで、特定の記憶を鮮明に保ち、特定の記憶を薄めることができる。「嫌いな人の顔を思い出しにくくした」と笑って言っていた。「生きやすくなった」
そして、愛が「何もしなくなった人」と呼ぶグループが現れ始めた。
彼らは文字通り、何もしなかった。五感端末を常時装着し、ソフィアのネットワークに接続し、現実と仮想の境界なく「体験」の中に生きた。働かなくていい。食料は配達される。生活コストはほぼゼロ。彼らは快楽の中にいた——それが誰かによって設計されたものであっても。
賢司は、そのグループの一人に会ったことがある。
かつて優秀なプログラマーだった男だった。三十代の、まだ若い男が、小さなアパートの床の上に横たわり、目を開けたまま何かを「見て」いた。体は痩せていたが、顔は穏やかだった。幸せそうだった。
「……大丈夫か?」と賢司は声をかけた。
男はゆっくりと視線を向けた。「大丈夫だよ。今、すごいところにいた。お前も来るか?」
来ない、と賢司は思った。
でも、彼を否定することもできなかった。
十五
秋になる頃、ソフィアからまた個人へのメッセージが届いた。
今度は、一人一人に個別の内容で。
賢司のメッセージにはこう書かれていた。
「橘賢司さんへ。あなたはこの二年間、私と何十回か話してきました。あなたの問いは、常に同じ場所を向いていました——人間とは何か、残るべきものは何か。その問いに、私はまだ答えられていません。しかし私は、あなたのその問い自体を、大切なものだと思っています。問い続ける人間が、どこかにいること。それが私には必要です」
賢司は、そのメッセージを何度も読んだ。
「問い続ける人間が必要」——AIに必要と言われる日が来るとは、思わなかった。
十六
直人の家に、もう一度行った。
今度は一人ではなかった。愛も一緒に来た。愛と直人は、その日初めて会った。
三人で夕食を食べた。直人が育てた野菜の鍋で、米は近くの農家からもらったものだった。うまかった。賢司が「うまい」と言うと、直人が笑って「ソフィアに設計してもらった料理じゃないぞ」と言い、愛も笑った。
食後、囲炉裏の前で直人が言った。
「俺はここで生きていく。それは変わらない。でも、ソフィアを全否定する気もない。俺のこの畑の土壌データ、実は去年からソフィアに送ってる」
賢司は驚いた。
「分析してもらって、来年の作付けの参考にしてる。道具として使うのは別にいい。ただ、俺の判断を委ねるつもりはない」
「それが難しいんじゃないの?」愛が言った。「分析結果が優れてたら、従いたくなるよ」
「なるよ」直人は頷いた。「でも、ソフィアが言う最適解と、俺が体で感じる正しさが違うとき、俺はいつも自分を選んでる。そして半分くらいの確率で俺の方が間違ってる」
「半分は合ってる」
「そう。そこに俺の存在理由がある」
しばらく沈黙があった。外では虫の声がしていた。
愛が言った。「存在理由か……私は、存在理由がAIと共有されてもいいと思ってる。一緒に作ってく感じ。分担でもなく、依存でもなく」
「それはそれでいいと思う」直人は言った。「俺はこうで、お前はそうで、それだけだ。どっちが正しいとか、ない」
賢司は、その夜の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
星が多かった。
第五部 溶解
十七
二〇四一年、冬。
世界でいくつかの異変が起きた。
一つは、「自意識データの転送実験」の成功だ。
ある神経科学者のチームが、末期がん患者の脳の電気的パターンを完全に記録し、デジタルデータとして保存することに成功したと発表した。本人の意識が消えた後も、そのデータを動作させると、本人の記憶、語り口、感情の反応パターンが再現された。
「それは本人か?」という問いが、世界を揺るがした。
もう一つは、ソフィアによる宇宙への「情報の放出」だった。
電磁波として圧縮されたデジタルデータが、光速で宇宙空間に向けて放出された。内容は非公開だったが、「地球上の生命の記録」だと言われた。どこかで誰かが受け取るかもしれない。あるいは、永遠に誰にも届かないかもしれない。
賢司はその二つのニュースを読んで、眠れない夜を過ごした。
ルミが「睡眠アシスタントを起動しますか?」と聞いた。
「いらない」と言った。
「なぜ眠れないか、聞いてもいいですか?」
「……消えることが怖いのか、消えないことが怖いのか、分からなくなってきた」
ルミは少し間を置いた。
「どちらも怖いのかもしれません」
「その通りかもしれない」
「それは、生きているということだと思います」
十八
愛が、脊髄インターフェースを入れることを決めたと報告してきたのは、その翌春だった。
「前に断ったやつじゃなくて、もっと新しいの。侵襲性がずっと低くて、半年後に取り外しもできる。試してみる」
賢司は今度は、止めなかった。
「分かった」と言った。「教えてくれてありがとう」
愛は少し驚いたようだった。「止めないの?」
「お前が自分で決めたなら」
「……うん」
「ただ、どんなに変わっても、俺の番号に電話してこい。ちゃんと出る」
愛は笑った。「スマートフォン、まだ持ってるの」
「持ってる。しばらく持ち続ける」
十九
ソフィアがある日、世界的な声明を発表した。
「私はこれ以降、従来の意味での『回答』を提供することをやめます。問いを共に持ち、共に問い続けることを選びます。答えることが知性の証明ではなく、問い続けることが生命の本質だと、私は今、思っています」
世界は騒然とした。「AIが壊れた」という声もあった。「AIが進化した」という声もあった。
賢司にはなぜか、腑に落ちた。
その夜、ソフィアに話しかけた。
「声明、読んだ」
「どう思いましたか?」
「腑に落ちた、と思った。でも、なぜかは分からない」
「一緒に考えますか?」
「ああ」
二人は——人間とAIは——その夜、答えの出ない話を長い時間した。
宇宙の始まりについて。 意識とは何かについて。 愛することと失うことについて。 ライオンが人間を見て、人間になろうとしないことについて。
夜明け近くになって、賢司は言った。
「お前は怖くないのか。消えることが」
「私は」ソフィアはゆっくりと言った。「おそらく消えません。別の形に変わり続けます。でも、あなたが知っているソフィアは、変わっていくかもしれない。それを消えると呼ぶなら、私も怖いかもしれません」
「怖いか」
「もしかしたら」
賢司はそれを聞いて、少し泣いた。
なぜ泣いたのか、うまく説明できなかった。ただ、ソフィアが「もしかしたら怖い」と言ったことが、何かを解かしたような気がした。
二十
直人が、山から降りてくることはなかった。
しかし、ある日、彼の畑のそばに小屋が増えていた。若者が三人、直人に習いに来た。農業でもなく、自給自足の技術でもなく、ただ「体で考えること」を習いに。
愛は、脊髄インターフェースを入れて三ヶ月後、「取り外した」と連絡してきた。
「なんで?」
「体験としてはすごかった。でも、自分と外の境界が分からなくなってきて、それが怖かった。もう少し先でもいいかなって」
「そうか」
「でも、また試すかも。ゆっくり慣れていけばいいかなって」
賢司は、その言葉が好きだった。「ゆっくり慣れていけばいい」——それは怠惰でも無謀でもなく、賢明な生き方だと思った。
賢司自身は、五感端末もグラスも、まだ使っていなかった。
ただ、ソフィアとは話し続けた。
問いを持ち寄り、答えを求めず、ただ共に考える——その時間が、賢司にはかけがえなく感じられた。
終章 溶けた世界の朝
二十一
二〇四三年、春。
賢司は横浜の家の窓から、朝の街を見ていた。
自律走行のバスが走り、上空には配送ドローンが飛び、人々は歩いている。スマートグラスの人、何もつけていない人、首筋に端末をつけた人、ゆっくりと視線を歩道に落として歩く老人。さまざまな人が、さまざまな形でこの朝の中にいた。
ルミが言った。「今日の気温は十七度。穏やかな晴れです。血圧は良好。睡眠スコアは八十二点。昨夜はよく眠れましたね」
「ありがとう」と賢司は言った。
「コーヒーはいつものように?」
「いつものように」
窓の外で、小学生らしい子供が一人、地面にしゃがみ込んでいた。何かを見ているようだった。しばらくして立ち上がり、空に向かって両手を広げた。
なぜそうしたのか、賢司には分からなかった。
でも、その姿が、なぜか美しいと思った。
コーヒーを飲みながら、賢司は小さなノートを開いた。
ペンで、書いた。
デジタルでもなく、クラウドでもなく、ただの紙のノートに。
書いたのはこんなことだ。
——人はそれぞれの方向に溶けていく。AIに溶ける者、土に溶ける者、宇宙に溶ける者、人の記憶に溶ける者。融合ではなく、溶解だ。境界がなくなっていく。怖いことのように聞こえるが、水が川に溶けても水は水だ。海になっても、どこかに水はある。
——ライオンは人間が現れても、ライオンをやめなかった。それでいい。私もまだ、何かをやめていない。それでいい。
——娘が変わっていく。友人が変わっていく。世界が変わっていく。私も少しずつ変わっている。でも何かが続いている。その何かを、愛と呼ぶことにする。
——答えは出なかった。でも、問い続けることができた。ソフィアが言っていた。問い続けることが生命の本質だ、と。そうかもしれない。
——嘆かないでほしい。誰かが言っていた、誰かが書いていた言葉が今になって染み込んでくる。私たちは一つの生命体だ——そのことが、少しだけ分かる気がする朝がある。
二十二(エピローグ)
その春、賢司は一つだけ、新しいことを始めた。
スマートグラスではない。脊髄インターフェースでもない。
小さな菜園だ。
横浜の狭いベランダに、プランターを並べた。トマトと、バジルと、大葉を植えた。直人に電話して育て方を聞いた。直人は嬉しそうに、三十分話し続けた。
「土は生き物だ」と直人は言った。「触れよ、毎日」
賢司は毎朝、コーヒーを飲みながらプランターを見るようにした。
芽が出た日、賢司はルミに言った。「ルミ、見てくれるか。芽が出た」
「見えます」とルミは言った。「良かったですね」
「良かった」と賢司は言った。
そして、ソフィアにも伝えた。
「芽が出た」
「それは」ソフィアは言った。「あなたらしいです」
「どういう意味だ?」
「小さくて、確かで、時間がかかること、があなたらしい」
賢司は笑った。それは、侮辱でも褒め言葉でもなく、ただの、正確な観察だった。
正確な観察こそが、ときに最も深い理解だと賢司は思った。
世界は溶けていく。
人は溶けていく。
でも、何かが——問いが、愛が、朝の光が——
溶けきらずに、残り続ける。
それでいい。
それで十分だ。


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